生贄合評スレ[336]
2015 12/23 09:42
高橋良幸

みなさん一堂に会しているわけではないのですから、もっと締め切りは長くてもよいのではないでしょうか?場が収まったら、合評終わり、というやり方らしいので。(ただ、実質スレオペ不在なので自己コントロールも必要でしょうね)

うつくしい うんこ
URL: http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=310883

<一>
 何度か読み返して、『うつくしい うんこ』の詩的機能は「感動の伝達」なのだと思いました。その上でポイントの数を見る限り伝達の役目がよく果たされていることがわかるため、もうそれでいいではないか、批評するべきことはないのではないかと思いました。

<二>
 ただ、ひとつ私がもったいないなと思ったのは、せっかく見えない世界に触れられる機会だったのに、この詩では見える世界と聞こえる世界しか描写されていないことです。5連目が見えない世界に少しはみ出しているのかもしれませんが、あくまで見えないものを作者が見た(感じた)のであって、見えていない世界に踏み込んだわけではないですよね?盲の方が見えていないのと同じ体験を「私にも 確かに見えたんだ(改行)うつくしい うんこ が」と表現するのであれば、見えない世界の描写がその前にあったほうが良いのではないかと思いました(5連目冒頭3行がそうなのかもしれませんが、表現が視覚的で目が見えている描写に感じました)。そのほうが、「うつくしいうんこ」という、そんなものはないだろう、と思わせる「否定を含む語句」の「否定」の部分が、「見えたんだ」を論理記号的に否定する表現(それは<見えなかった>、という否定ではなくて、<見えるという現象ではない仕方で見えた>、という否定)の形を、より効果的にすると思うからです。

<三>
 <二>のような頭で「見えたんだ(改行)うつくしい うんこ が」見えないことを隠喩しているのだと思うと、その先にある「それにしても(改行) うつくしい ほほえみ が」も形が同じなので、作者がここに隠喩を込めようと思えば込められると思います。そしてこれが隠喩だと思うとこの詩が不穏に見えてきますが(その方が私の好みですが)、作者のコメントを見る限りは純粋に感動したというお話らしいので、最終2行は何も隠喩していない、と思うことにします(どうなの、るるりらさん!)。

<四>
 隠喩は5連目にしか無いという前提で話を進めます。
 詩は作者と読者がいて、初めて生まれるという意見をこのサイトを見ていると時々目にするし、私もその意見はそのようだ、と思っています。蛾兆ボルカさんの、"読詩エンジン”の回転数を上げないといけない、掘ったら詩がある『穴』と違って、るるりらさんのこの詩は読みやすく読者に優しい詩だと思いました(読みにくいのが悪いと言っているわけでは無いです。面白さがあるし)。しかし、作者と読者と詩の関係を考える時に、『うつくしい うんこ』は詩が問答無用であるとも思いました。極論すれば、作者と読者が居なくても詩が成立してしまっている。もしかしたら私が<二>で書いたことを実行してしまえば、問答無用の詩を汚してしまうのかもしれません。そう思うと、変な欲を出さずに見聞の描写に徹したこの詩の直喩主体の構成も必然的なものかもしれません。以上です。
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