批評しましょ[598]
2007 06/12 12:10
山田せばすちゃん

おお、なんかここに書き込むのも久しぶりだな、ということで
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=122113
「極私的映画評」とのことだが、肝心の映画にはほとんど触れていないで話の大半は主婦が如何に家庭内に縛られているか、そうおいそれとダンスなんか習いにいけるものかというジェンダー批判に費やされているのだが、つかそれは家庭内における「労働力の再生産労働」を妻と夫のどちらが主に担うか、という問題であって、文化的規範としての男らしさ女らしさの問題を問おうとするジェンダーの問題とは一部重なりつつも実は位相として違う問題である。
筆者が冒頭の身勝手な母親の事例で挙証しようとした「家事労働=労働力の再生産労働は本来女性が担うもの」=「男は外で働いて女は家庭を守るもの」という命題は、一見すると文化的な規範であるようにみえるが、その実は限られた収入のもとで労働者の家庭が賃金の獲得のための労働とそれに必要な労働力の再生産労働をいかに合理的に分業したかという結果であり、その合理性は出産と育児を生得的なものとして引き受けた「女性」の生物学的な事実に裏打ちされている。(とはいうものの、出産それ自体は置換不能な生物学的事実だが育児は単に母乳を分泌するという程度のいまや代替可能な問題でしかないけれど)
現実に分業の合理性を追求した結果として「専業主夫」を選択した家庭も散見されるようになってきてはいるが、それは現代社会において要求される労働が、知的生産という男女の肉体的性差に左右されにくい質の労働へと転換してきた結果であり、要は家庭内における労働の分担は社会が要求する労働の質と賃金の高低によって合理的に決定されているのである。(サガンが家庭内労働を退屈と断じたのはもちろん本人の向き不向きもあるだろうが、小説の生産に特化した労働者である彼女はその時点で合理的な判断として家事のアウトソーシング、もしくは専業主夫になってもらう等を夫君に提案すべきであったのだ。)
もし家庭内で労働力の再生産労働に従事する側が、日々の多忙に追われ「趣味の習い事をするゆとりさえない」のだとしたら、それは決してジェンダーの問題ではなく、家庭に渡る収入が圧倒的に少ないからであって、それは文化と性差別の問題ではなく、資本主義経済体制化における労働力の搾取の問題として捉えるべきである。
要は「社長さんあたしが習い事の一つもできるくらいにうちの旦那の給料あげてよ、そしたらあたしは家事労働を一部機械化したり一部アウトソーシングしたりしてダンスを習いにいけるのよ。」
ってなところが妥当な結論ではないかと。
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