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あと、コンビニとか、病院とか、老人ホームに置いてもらったり・・・ そうこうしているうちに、自費出版本が話題をかっさらう日が来ることを 願っています。 by ルルカ new >詩とは何か感じたこと 商行為とは商人が行う行為をいう(定義①) 商人とは商行為を行う者をいう(定義②) というわけで「詩」とは何か、感じる為には 「詩人」とは何かを感じる必要があるようだ。 私は、まず、詩人についてはこう感じる。 詩人とは、詩人になりたくてなるものではない。 そういう人は、詩人ではないのだ、本質的にも根本的にも。本当は。 詩人とは、そんな者にはなりたくないけれど、どうしても なってしまう哀しい運命にある者のことなのだ。 そういう詩人の運命にある者、すなわち《詩人》が書くものは、 詩を書こうとしなくても、そこには自ずと詩があるものだ。 書いたものが、エッセイであれ、コメントであれ、そういう人が書いたものに は、必ず《詩》が宿っているし、宿ってしまうものだ。 本質的にも根本的にも詩人でない者が、逆に、詩を書いてみても そこに、詩は現れない。 そういうものなんだろう、と私は感じる。 こういう細やかなスレッドにおいても、何かが書かれ、それが文であるとき そこに、たいした《詩》がないのであれば、その書き手は推して知るべしの者 でしかない。と。 もっとも、平凡に生きられる人の方がずっとシアワセなのだろうが。 by ハァモニィベル アノ「県知事の差別発言」 時事ネタですね(笑)。 天狗猿が、 ニホン猿に向かって、 「お前たちはゴリラなんかより利口なんだ」 と言った。というねアノ。 そしたら、 別のニホン猿の群れがこぞって 「あ、サベツだ。サベツだ。エンガチョ」 と一斉に報道した。 というね、確か、そんな話だったような・・・ などと発言すると問題ですかね(笑) というか、 最早、《詩》でしょうね。 これを絵に描いて壁に落書きすれば たんなる数億円のアーティストなだけでしょうけどね(笑) * by ハァモニィベル
ピッタリするものが無かったので新規にスレッド立ち上げてみました。 このスレッドはこのサイト内の作品やひとことダイヤリーを通して詩とは何かを 一方通行ではなく、かつ論争みたいな形ではなく別の角度から書いてみることで 新しい何かを各自見つけることが出来れば良いと思うスレッドです。 要するに、サイト内の作品やひとことダイヤリーで詩とは何か感じたことを書く場所。 アラガイsさん、メッセージありがとうございます。 長い詩歴のなかで現代詩風の作品も書いてこられた アラガイsさんの今回のログは、アラガイsさんが書くと 一過性の言葉のようにも思えてしまったのですが、 日常生活で、なにかあったのでしょうか? あなたは向上を意識するという二人称は、私とは切り はなされた足立らどみがふだん言ってきているしで、 簡単な言葉を濃密にできることは私にとっては魅力的ですが、 何かわからない詩の圧はどうなのかなぁ。と。。/。。/ 「石鹸工場」を視察したときマスクをつけましたが、唾を 飛ばさないためというよりも自分の身を守るためでもあり、 日常生活で利用している石鹸も工場ではその濃度は自然界 にはないことを知っていて詩書き人は、マネーロンダリング ならぬ、ワードロンダリングとして利用することもあるので しょう。 私は社会に出てからこの左手から溢れる言葉で多くの人を殺してきました(ToT) それが私の詩読み人としての原罪ですかねぇ それが分かっているから詩を書けないのかな なに書いているのか、わからないけど(^_^?) 私は向上を意識する。とは言っても高尚な詩を書こうとは思わない。向上を目指すとはある意味原点に回帰するような無駄な事だとも思われる。あくまでもそんな無意味なことに挑戦している自分が阿呆らしくて可愛いのです。 303.comさん、助かりました。ありがとうございます。 なるほどてす。そば、うどん、きしめん、中華麺の四掛けに してもダメですね。欲張れば良いというわけでもないわけか。 詩の会得は時間かかりそう、、長命うどんでも食べに行こう! ヒヤシンスとビスケットの統合をやっている方はしょっちゅう見掛けますし、私もその作業が好きだなと常々思います。 何が面白いかといえば、詩を作っていると上の様な文が当然のように書けることです。 エビフライと猫じゃらしでは駄目なのです。 成城大学のサイトから読める森田孟先生の「詩とは何か」を読んで思ったこと。https://www.seijo.ac.jp/pdf/falit/227/227-1.pdf カールサンドバークの 18 詩とは目に見えない記念品の携帯袋である。 あいかわらず、なに書いているのかだけど、 あえて超訳したら、これなんかは、 「詩とは、地下室の冷蔵庫にしまってある宝物箱である。」らどみ に、近いのかもしれないな。 厳しさと優しさをあわせ持つ人たちのもつ良心の結晶に 私たちは接することができる世界に詩はあるのだろうか 四半世紀前の青土社関連のブログのログを読んでから考えてみる。 「現代芸術」が“高尚”たらねばならぬ理由(わけ) November 21 - December 11, 2000 http://www.archivelago.com/Garden/Fountain/music_writing/koshotaru_riyu.html * 創作サイトには本物の専門家で最先端で活躍している方はすくないけど、 だからと言ってそれぞれの創作意欲を削り合うことの時間の無駄使いは、 やめにしようではないかという風潮もでてきたようにも感じ始めている。 なので、その先のログを残してみようと試みてみるのですが、例えば、 芸術論と人格攻撃がごっちゃまぜになって遊んでしまってた今までの 創作サイトの「よくある論争」では、その先のステージは用意してある のに、多くの参加者が、うんざりしてしまい(なかには一度きりの人生を ボウにしてしまい)、その類いは参加しない(私は基本的は最初から)で、 例えば、上澄みの暖かい泉で身体を清めるためにネットを利用している。 際限のない詩の領域にハマるとキリがなくて水辺で愉しんでいたいけど、 手の届く範囲にいるのも実は生身の人だったりするものだから 詩のサイトでは臨床心理学者のいうハリネズミシンドロームが ベールとなり覆いかぶさって、それを逆手に取り承認欲求者が 跋扈してしまう傾向から脱却できずに現実の時間よりも数十倍は 速くなっているネット的な時間だけが性懲りもなく過ぎてきたのかも そう、客層は違えど、繰り返し、繰り返し、繰り返し、、 今の時点で思うことは個人的には、詩を高尚低俗の切り口で判断する愚は 未来の自分に笑われるだけのように感じるけど、時のテーブルに置かれた お茶菓子は、取り巻く人とのなかで何も話題にならなくても意味があるし 一歩すすめると、そのお茶菓子を買うことは別の切り口による評価であり、 高尚低俗を論じてみても無意味なことだと思うのだけどね。どうだろうか よくわからない 2024年4月 うーん。にゃるほどにゃ読解力が問題なのかも たしかに長谷川忍氏も随筆が好きだと言ってた 最初の1行に字数を合わせるのは詩ではなくて 仕事柄の単なるクセですかね机の上は綺麗です 問題はそこには無くて今も大切なことは小さな お肉をたくさん食べれることではなくて気ずき その気付きを忘れないように幾年月も何十年も 後生たいせつに出来る持続力さえあれば良いと 思っていた。いつでも捨てられるのですし 今日も捨ててきましたし毎日捨てています おかしいよね。さて、私はなんでしょうかt-t #ヒントは地下室の冷蔵庫にしまってある蛸壺^-^ >足立らどみさん おはようございます。……妙に寒いと思ったら、遠くの山には雪が積もっていました。この気候、早くなんとかならないかな。昨日は案の定熱を出してしまい、幸いなことに煮付けは作りおいていたものがまだ残っていたので、魚だけ焼いて、父には「適当に温めて食べてくれる?」と。ご飯もありましたし…… 「中立性の面影」についてですが、やはりそこは「公正」でも「公平」でも「客観的」でもなくて「中立」で、「感じ」でも「印象」でもなくて「面影」で、なければならなかったんですよね。……多分、足立さんの書き込みが真剣だったので、それに素で答えないとと思ったんでしょうね。このところは避けていた態度なんですけれど。 わたしは詩論は書かないけれど詩人論は書きたいですし、詩については知らないけれど詩の言葉については少し知っていて、馬鹿々々しい回答かもしれませんけれど、散文の言葉は「meanings」を伝える言葉、詩の言葉は「attitude」を伝える言葉なんだろうと思っています。 日本における詩の悲劇というのは、近代になってから「歌」という言葉が「詩」という言葉に置き換わってしまったことで、「詩(shi)」というのは当然「死(shi)」を連想させる。これは言葉遊びではなくって、英語だと眠れない夜に「one sheep」「two sheeps」……と数えますよね。これは「one sleep」「two sleep」の訛りだからで、言葉というのはそういう機能を持っているのだと思います。 わたしの書き言葉は……もともとはプログラミング言語です。10歳くらいのときから、長兄の影響でプログラムを組んでいましたし。国語や英語はもともと赤点ぎりぎりで、プログラミング言語のように言葉を「システム」と考えることによって、ようやく人並みに文章が書けるようになったと言いますか。 今、足立さんにとってわたしの思考のベースが標準語のように見えるのは、仕事柄の慣れですね。広告ライターの仕事は8年くらいは続けていたと思うんですが……。その後に「です・ます」調で批評なども書くようになって、わたしなりにそこに批評というものの新しい可能性を見たりはしているんですが。……どうでしょう。今後必要になれば、また文体は変えるのかもしれません。 今でも、切羽詰まったり余裕がなかったりすると、詩のように行分けして書いたりしますよ。足立さんは、文字数をそろえるようにお書きになるのですね。一つの詩のスタイルであり、足立さんはやはり詩人なのでしょう。 標準語にからめてもう一つ、わたしは若いころに関西に住んでいたこともあって、関西弁が好きなんですよね。関西弁だと「あかんやん」とか「いけず」とか、単語で作用する言葉がある。「なにしとん(ねん)」とかね。東京の人だったら、「お前何してんだよ」というふうに「お前」がつくけれど、関西ではあまり「自分なにしとんねん」(「自分」は関西弁では「お前」の意味)とは言わない。多分、標準語というより関東弁は「meanings」としての性質が強く、関西弁は「attitude」としての性質が強いのだろうと思っています。人と人との間隔が近いんですね、きっと、関西のほうが。 「詩」についてお伝えできず、申し訳なく思います。わたしは多分今後とも「詩」については書かないと思っています。 「足立氏には中立性の面影を見ています。」 たぶん、おぼろんさんの着眼点は標準語の上に成り立っていると 勘違いしていたのかもしれないとぼくのほうは人生を足掻くふり。 たしかに、現実は、例えると公衆浴場に入っても影の薄いぼくは すぐに湯けむりと化して誰にも認識されずにあがってこれる自負 みたいな(変な表現)ものだけはある生き方をしてきたのだから、 「中立性の面影」を見つける方がこのサイトにいたという驚きには あまりのショックに言葉を失ってしまいました。 詩とはなんなのでしょうね。おぼろんさん。 おぼろんさんには「寝る(死ぬ)。」ことなのかもしれないけど、 ぼくには生きていることの裏返しのような気がしてきました。 世の中知らないことだらけで他人のこともわからないですね。 日々、周りの人たちがうつりゆく変わっていく平成令和の流れ、 ぼくの場合は家族を養っていかないといけないので一生懸命 働いて働いてたぶんそれこそ死ぬまで働き続けるのだろうと 社会に出てかれこれ34年間は生きてこれました。 詩なんてものそれほど大切なものなのでしょうか〉みなさん。 子どものときはともかく大人になってからぼく自身の詩は 別に無くても生きてきた詩を書かない(詩が書けない)人生も 楽しかったですよと天国にいるご先祖様に伝えたかったから、 だからこそ001のてんぐちゃんの持ち物には大人のぼくは あまり興味がなく自分にも興味がないだけなのかもしれない のに、そもそも詩とは何かがわからないので、みなさんには なにも伝えられないと思って生きてきたよ。とても感謝です。 足立氏には中立性の面影を見ています。 寝る(死ぬ)。 おぼろんさんのログは懐かしさを感じて読んでますかね。 個人的にはお魚の鯵は好きだけどアジるのたのしむ輩は、 その人の日常生活で何があるのか知らないし興味ないので するするするーって面倒臭いのでアンタッチャブル感かな 追記。 アジテーションの爆弾は気を付けなあかんよ。 詩のサイトの皆は軽々しく「詩は……」とか言うけどさ、 そういうので(詩に限らず)破滅してきた人何人も見ているし。 と……眠れず、十数年ぶりくらいのネット・スラングを使うわたし。 (皆が関西弁を使うというスラングも、まあ、数年前の話ではある) >足立らどみさん。 そう、必死なのよ、わたしも。 長く書くことがしんどいのかと言うと、そうではなくって、 長く書くことでやっと生きていられるって。 (仕事で長く書くのは慣れているから。一日一万字が標準……広告だと、文学よりもっと時間がかかる。2倍か3倍くらい) あまり弱者ぶりたくはないんだけれど、ご容赦いただけたらサンクス。 〉リハビリ(笑)。 そか回復期系を回しておられるのですね それな。ならやむを得ないわけか。謝辞 「研究」と「教育」と「実践」の3つが 束になり重く太く意味が動くのだからさ この社会も大きなマニ車だと思ってたら 誰もが案外とリア充で生きられるのかも どこかなにかがかわったのかもしれない 気づきを頂けました。ほんとに感謝です。 リハビリ(笑)。 追記。 それと、アジテイターにはなりたくないのです。わたしの書いたことが雑多な印象になったようで、ほっとしています。 おぼろんさん、駄文長すぎるよ。 内容的にもっと短い文でいいのに byte数多くても時給上がらんよ (t_TVなぜ? 頭がぐらぐらして吐き気がします。この後少し寝るかも。 >足立らどみさん 褒められても何もでませんよ。「後輩たちに伝えている」は過分で、わたしがそう思ったらおこがましいかな。何せ、今のわたしは公平さとか公正さとかは全て捨ててしまおうと思っているものですから。 詩の「日常生活環境との繋がり」ということなのですが、その前に──わたしの詩の定義は至ってシンプルです。「詩とは、詩的であると歴史的にみなされてきた事どもを文章として表現する、その歴史そのものによって保証される文化」となります。 なんだ、これじゃいつから詩が始まったのかが全然分からないし、これから未来のことも書かれていない、詩の定義に全然なっていない──と考える方が、多分ほとんどだと思います。憤慨する前に、まず「あなたの詩論をどうぞ」というのがわたしのスタンス。 わたしが上に書いたことの説明をもう少し。わたしが上に書いたことに付随して、例えば平安時代であれば、「詩」という言葉は「歌」という言葉を、「詩的」という言葉は「あはれ」という言葉をもって指し示されていたものだ……と、わたしは思っております。 また、歴史の起点が明示されていないのにそれを定義として用い得るのか、という疑問もあると思います。これについては、「言葉」さらには「固有名詞」ですら、その起点(原典)を明確に指し示すことは不可能である、というクリプキの考え(指示の因果説)に基づいて、「言葉」というものはもともとそうしたものだ、と考えていただければと思います。 https://www.jstage.jst.go.jp/article/timestudies/1/0/1_49/_pdf/-char/ja ちょっとだけ検索してみた結果ですが、「指示の因果説」については上に書かれていますね。信じられないという感想も、疑わしいという感想も、多分多くの方が抱かれるだろうと思うのですが、要するにコロンブスの卵です。結構古くからある議論ですので、参照してそれぞれに考えていただければと、思うものなのです。 詩の「日常生活環境との繋がり」についてはもっとずっと難しいですね。何しろ、そうしたことを書くには詩の定義だけでなく、人間の定義や社会の定義まで分かっていないといけない。そして、それが指し示すものは「歴史的現在」の人の姿です。 足立らどみさんがおっしゃりたいのは、文面から推し量ると、「詩って生きるのにも役立つよ!」ということなのかな、と思うのですが、わたし自身はこれは、「正しい」かつ「正しくない」考え方だと思います。要するに、場合によるのであって、それで詩を規定してしまうことは詩の可能性を狭めるものでもあると思うのです。 問題は、「歴史的現在」というのが、「これからの未来」も含むという点にあります。要するに、「これからの未来」というものを時間軸で表すと、それは開空間ではなくて閉空間になっているのですね。「現在<=これからの未来<未来」という図式です。ただ、こうした見方をすることによって詩というのは進歩・進化し得るものとして保証されます。 ここでは、あえて詩らしくない言葉で説明させていただいていますが、詩というのはそもそも詩的な言葉を用いることでしか、説明したり語ったりすることができないものだと思っています。それについて、まずそうした文化が根付いていること。例えばポーの詩論などが評価されるのも、それが詩の言葉で書かれた詩論だからでしょう。 と同時に、わたしは言葉というもの自体が自己言及的な構造を持っているものだと思っております。この点については、ちょっとゲーデルの不完全性定理の「すべての言語への応用」というのに絡めて考えてみないといけないところ。数学にしろ言語にしろ、同じ決まり事(「公理系」)という定義に基づく、秩序構造(「クラス」)なのです。 また、こういう見方も出来るのではないでしょうか? 人、社会、宇宙といった構造はフラクタルな側面を持っている、と。人体は小宇宙だと言われることがありますよね。また、宇宙は細胞のような構造をもっていることが科学的に示されています(ボイドと銀河フィラメント)。 要するに、人とは何なのか、ということがそもそもとてつもない問題で、わたしたちはわたしたちなりに接した人と接する、会話できる人と会話する、理解できる人を理解する、といったスタンスを持つことがより重要なのだと思います。そうしなければ、社会に参加する前に、人と接する、という第一歩が始まらないためです。 わたしが詩論は書かずに詩人論は書く、というのも、そうした「文学的世間話」のなかから「詩の本質」が光としてかいま見えてくることを期待してのことになります。もっとも、そうした傾向はわたしがクリスチャンだからであって、「隣人を愛せ」という言葉に盲目的に従っているからです。偉くもありませんし、文学的に重要な姿勢でもないものです。 ただ、詩の「日常生活環境との繋がり」ということについて、今詩における表現として何が求められているのか、ということを考えれば、それは現在にあってますます重要になってきている「自由」ということじゃないかな、とは思っています。カオスではなくて秩序としての自由。「これは自由だ」と自信をもって言える、そうした限りにおいての自由。「多様性」なんていう新しい言葉は、「自由」という言葉の言い換えにすぎないと思っています。なので、教育関係者や為政者らがとんちんかんな「多様性」を振り回すのではないでしょうか? 多分、足立さんへのお答えにはなっていないと思うのですが……ただ、詩を読むということは作者における直観をトレースする行為であり、精神的な面において理学療法的な効果ももたらすものだろうと思っています。作者にあって、詩を書くためにはインスピレーションを待つ必要があるように、読者の人生にあっても詩を読むためのインスピレーションが必要となるように思うのですが、どうだったでしょうか。 まとまってもいませんし、これは「考えたこと」であって「感じたこと」ではないのですが……これもわたしらしい解答と言うことで。 ※少し修正しました。 歌じゃなくて 管を巻く おぼろんさんやハァモニィベルさんの「ストイックな学究」は凄いし このサイトで文章を露わにして「後輩たちに伝えている」のも大切で あと欲いうと日常生活環境との繋がりをその字で表現してみて欲しい 「正しい生活をしていたらその人の才能や性質は正しく発達していく」 のは素敵な考えだけど、今の令和の現実の社会は表面はサラサラでも 実際はどろどろの沼のなかで今後どう進めば良いのかもがいていて痛て 平成にいた場末の居酒屋で知らない若者(私)にうだをまくお年寄りには 反面教師でなりたくないなとこのこのサイトが陶冶しても足りない言葉の 隙間を埋め尽くしてくれる毎日を提供することで私も愉しみたいのだろう お別れの言葉をいう季節は過ぎてしまっても 私は私の心の詩人たちにやっと「さよなら」と 言える、そっと呟ける そんな気がするんだよね ハァモニィベルさんらとの会話を通して……。 例えば、孤高にすごした偉人らにとっても、「(その心が)救われた瞬間はあったのだ」と、考えることは、わたしたちが豊かに生きることにもつながってくるのでは、と感じ。 あくまでも、このスレッドは「詩とは何か」について考察する場ですが、孤独というのは詩に含まれる重要な要素であり、ある時にはその詩人における唯一の要素でもあり…… そうしたことを鑑みても、「救われた瞬間はあったのだ」という思いを持つことは重要なのではないか、と。いろいろと記憶を探ってみましたが、こうした感覚はV.E.フランクルの主張に近いかもしれません。 要するに、「それでも人生にイエスと言う」という(書名にも現れている)スタンスです。個人的な感慨を言えば、ここ(現代詩フォーラム)は、芸術論のみを謂いする場であってはいけないような気がします。また、それだけの歴史ももっているサイトだと思っております。 1 2 3 4 スレッドを新規に作成したり、コメントを書き込むにはログインが必要です。
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