■批評祭参加作品■ アンファンス・フィニ
和泉 輪

好きで好きでどうしようもない詩がある。教科書で偶然その詩を見つけた、詩のことなど何も分からない当時十二歳の少年を一発で虜にするような詩だ。中学校の国語の教科書に載るような詩だから、当然 難解な詩句などは使われていない。いや、むしろ難解な詩句などこの柔らかく美しい抒情を妨げるだけだ。


「Enfance finie」 過ぎ去った少年時代  三好達治
 

海の遠くに島が・・・・、雨に椿の花が墜ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。
   
約束はみんな壊れたね。

海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。

空には階段があるね。

今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣れよう。床に私の足跡が、足跡には微かな塵が・・・・、ああ哀れな私よ。

僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。


     ※


海の遠くに島が・・・・、雨に椿の花が墜ちた。鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。

何処か独白めいた調子で展開される冒頭部分から強烈に引き込まれる。「雨に椿の花が堕ちた。」で鮮やかな視覚的イメージを誘うと同時に春の到来を予感させ、「鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。」で言わば「主を失った家」という強烈な不在感を提示しながら、やはりそこにも春がくるのだという一種の諦観。そしてこの「A→B B→C」といった関係性を明示する表現は、このあと二度に渡って繰り返される。おそらくこのような現象の関係性を明示することにより、(真理と言っては大袈裟だが)世の理・世界の流動的な様態を詩人は指し示したかったのではないだろうか。


約束はみんな壊れたね。

約束は対象との関係を規定し繋ぎとめるものだ。本来 約束は事情が許す限り保持されるべきものであり、破棄されることを前提に結ばれる約束などにあまり意味はない。ではここで言われる「約束」はいったい何を意味しているのか。様々な解釈が可能だと思うが、私はこの約束を「少年と世界との関係を媒介するイノセンス」と解釈した。少年少女は彼ら特有のイノセンスを通じて世界と関係を持つ。そしてイノセンスは大人とは異なった彼らの「少年少女らしさ」を規定する。雪が降っても嬉しくなくなったとか、そんな些細なことで私たちは何らかの喪失感を抱き、そして少し哀しくなる。私たちはいったい何を失ったのか。「約束はみんな壊れたね。」とはまさにこの「イノセンスの喪失」を指しているのではないのだろうか。成長する過程で世界との関係は変化してゆく。そして世界も絶え間なく流動する。一行目「A→B B→C」の表現「鳥籠に春が、春が鳥のゐない鳥籠に。」がここで示唆的に残響している。


海には雲が、ね、雲には地球が、映つてゐるね。

空には階段があるね。

突然視界が開けるあまりにも美しすぎるイメージだ。見てはいけないものを見たような、まるで世界の秘密を知ってしまったかのような。知らなかったではすまされない、空に階段があることを知ってしまった人は一体どうするべきなのか。二行目「約束はみんな壊れたね。」から引き続き用いられている寄り添うような優しい文体は、最終行「僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。」でもう一度使われる。そう、この印象的な文体は「僕」に対して語りかけている内容を表している。時系列的な順序で言えば次の行に出てくる「私」が現在に位置し、「僕」の方が過去の「Enfance finie」を象徴する存在であると言えるだろう。


今日記憶の旗が落ちて、大きな川のやうに、私は人と訣れよう。床に私の足跡が、足跡には微かな塵が・・・・、ああ哀れな私よ。

「大きな川のように人と訣れる」とは一体どういう意味だろう。思い返してみれば私の学生時代、同窓の学生たちは共通の目的意識を持って集まっていた。そして最終的に目指す方向は違っても、少なくとも在学中は無事 卒業することを目的とし助け合っていたように思う。だが卒業を機に連絡が途絶えがちになり、やがて疎遠になっていった友人もたくさんいる。もちろん仲違いした訳ではない。ここで私はようやく「大きな川のやうに」という比喩の意味に気付く。大きな川には幾つもの支流・分流がある。異なる名前で呼ばれていた支流が本流に注ぎこみ、一つの「大きな川」を形成する。やがてそこから幾つもの分流が分かれ、そして分かれた分流はまた異なった新しい名前で呼ばれることになる。「大きな川のように私は人と訣れよう」とは、一番美しかった青春時代、思い出、また その友人たちから(さながら分流のように)訣れてゆくという決意の表明なのだ。別れるのではなく「訣れる」。そのように読むとこの行の最後「ああ哀れな私よ。」も、悲観しているというよりは、未来に対して漠然とした不安を抱えた自分自身を、少々 自嘲気味に表現したものと受け取れないだろうか。


僕は、さあ僕よ、僕は遠い旅に出ようね。

この詩を愛する人で、この行が一番好きだという人は多いと思う。かくいう私もその一人だ。この行「僕は遠い旅に出ようね。」という言葉で全てが昇華されている。多くの場合 読者は詩の最後にカタルシスを求めるものだが、そのようなことを差し引いても胸を張って好きだと言える。「僕」が「Enfance finie」を象徴する存在であることは前述したが、この行では何処か「私」と「僕」が重なってみえる。一度「僕は」と言いかけて「さあ僕よ」と言い直す。眼を閉じて暗唱するとき、いつも私は最後のこの一行で声が若干高くなる。意識している訳ではないのだが何故かそうなる。踏み出すことを怖れ、立ち止まっている過去の自分を励ますような、その手を引いて導いてゆくような、そんな優しさがこの一行には溢れている。


     ※


批評のことを学ぶまえに、無知ゆえの勢いと好きだという気持ちだけで書き上げてしまった感がある。これが批評と呼べるのかどうかも分からない。批評に興味があったのは事実だが、このような機会がなければおそらく(この慌しい時期に!)書こうという気さえ起こらなかっただろう。機会を与えて下さった批評祭・スレッドオペレーターの相田九龍さん、第一回目の批評祭から関わっている皆様、読んで頂いた詩人の皆様、そして何より日々このような場を提供して下さっている現代詩フォーラムに心より感謝します。ありがとうございました。


散文(批評随筆小説等) ■批評祭参加作品■ アンファンス・フィニ Copyright 和泉 輪 2007-01-04 17:09:44
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