普遍性について
佐々宝砂

前回私の足の話をしたので、今度は私の夫の足について話してみる。

私の夫は肉体労働従事者で、趣味が山歩き渓流釣り山菜採り茸狩り、毎週二回バレーボールとインディアカの練習に出かけ、日曜日にはソフトボールに行きサードを守り、それでもなおかつ時間があるときは私の実家の竹林整備に駆り出される、とゆー人間である。それだけでも運動量は充分だろうに、毎日テレビを見ながら六キログラムのダンベルをふりまわしている。部屋の中で素振りまでする(妻としては外でやってもらいたい)。五年ほど前まではちょっと詩も書き、ギターを弾いたりもしたが、今はもうぜんぜんやらない。読書の習慣はきちんとあって毎日なんやら本を読んでいるけれども、どこをどう見ても肉体派のヒトである。とても小柄で、身長は160cmないのだけれども。

だがとりあえず今の問題は体格でなく足である。私の夫の足は、靴の一般的サイズは私と同じで25cmなのだが、めっちゃ幅広の4Eで、ものすごく甲高で、ごっつい。指が短く太くしっかりしていて、土踏まずがとても深い。薄くて指が長くて細い私の足と、まさに正反対の足である。足を酷使しているため爪が変形してはいるが、とても機能的で、丈夫そうだ。私だって、こう見えてけっこう山歩きをしてきた人間で、平べったい弱そうな足を持っている割には、外反母趾の気配もないし、腰や膝を痛めたこともないのだが、どう見ても私のより夫の方が丈夫な足に見える。

私は、夫の足を見るたびに思う。この人の足は、とても、足らしい。いかにも足だ。足らしい足だ。人が丈夫そうな肉体派の足を想像するとき頭に思い浮かべるような、彫刻にしたくなるような足だ、と。

高村光太郎が、岩手の人の顔について述べた詩があった。私の夫の足は、なんつーか岩手の人の足のようだ。高村光太郎は岩手の人の足について書かなかったけれど、書いていたとしたら、私の夫の足のようなものだったに違いないと思う。彫刻家でもあった高村光太郎が足を彫刻したとしたら、私の足より私の夫の足を彫刻したがっただろうと思う。

私の足と夫の足、どちらも健康な足で機能的な問題はなく、水虫もないし外反母趾もない。だが、ごく普通の足ではない。どっちも同程度に個性的で極端な足だ(性格容貌性的嗜好が個性的かどうかはさておいて)。この極端な足ふたつを並べたとき、私のより夫の足の方が普遍的な足に見えるのは、いったいなぜなのだろうか。

普遍性という単語を聞くと、どうしても、私の夫の特殊な足を思い出してしまうのだ。


散文(批評随筆小説等) 普遍性について Copyright 佐々宝砂 2004-04-02 18:39:27
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