「袖道」
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「袖道」

読者の誤解を恐れずに言いますと、
読むと不快感を感じさせる詩というのがあります。たとえば、プチブルな(この言葉はも
う古語になってしまいました。あなたが、街角やキャンパスで大富豪の御子息にあって、
または労働者のお嬢さんにあって、お父様の収入を測ることは容易でしょうか。小さな水
色のプードルのお人形がプチブルなのかな、そんな)軽薄な言葉を並べた詩など。パパと
ママの優しさやお庭や花壇や、それから、ちょっとした香水とか、ブランドの小物とかお
いしいお店とか、セックスとか部活とか。ビクトリア朝の英語で言うあの鼻にかかったア
クセントで発音する「なんとなくクリスタル」な。そう言えば僕は何度も読んだんです、
あの本。ペーパーナイフと共に、胃に呑みこんじゃいました。
ビーダマってなんとなく美しいでしょ、ビーダマって中もなんとなくクリスタルなんでし
ょうか。僕が緑のビーダマをのぞいているとその中に男の子がいました、赤いチョッキを
着て。その男の子のビーダマの世界はなんとなくクリスタルなんでしょうか。緑のガラス
水に覆われた美しい世界が耳や鼻の中に入ってきて。
なんとなくクリスタルな世界って実生活にはないリアルな生活なんでしょうね。リアルだ
ったってことで受けたんだと思いますし、実生活になかったから当たったんですよ、ね。
なんか作者の方はうまくやったなあ、ひとときでも、実生活にリアルを取り込んだのは作
者だけだったんじゃないかしら。
なんとなくクリスタルなものっていうのは、なんとなくクリスタルじゃないものかもしれ
ませんよね。なんとなくっていう言葉がたいへん効いた言葉ですよね。よく、こんな話を
聞くんですよ、抽象的なトートロジー意外にはっきりこうだといえるものなんてないん
だ、ぼくらが大切に思っているほとんどのものというのはプリファランスの傾向なんだっ
てね。例えば、音楽ですか、愛とか、センスとか。でも、先進国のお人形はいつも痩せて
いくそうですよ。日本だけじゃなく、例えばヨーロッパでも、もちろん、アメリカでも。
お人形はお食事なんて時々お嬢ちゃんと遊んでもらうときしかしないので当然かなあ。ず
いぶん、凄みのある、皮肉に言えば客観性のあるプリファランスですよ。現実の世間で
は、でも、おっぱいは大きくなるんですよねえ。あれって、やっぱり、ぼくの好みプリフ
ァランスなんですかねえ。男だからかなあ。ぼくらってのはひとりひとり別個の存在で、
一回限りの、固有なものなんだろうけど、いつも、豊胸手術というのもおかしいと思いま
す。わたしは、左だけは小さいのが好きなのなんてプリファランスの女の人いませんか
あ。自分の体いじって何がわるいの!そうですよね、ぼくも本当に同感します。ぼくは、
そういう人間です。
ぼくが大切なぼく中心のぼくは、詩なんてあんなに情緒的ものなのにぼくは誰が見たって
絶対なんだよってよく思うんです。何が絶対なのよって聞かれると、ええとお、そのう、
よくわかんないんだけど。そりゃ、「ぼく」だよって答えられないところに不甲斐なさが
あるんだなあ、絶対なのはクリアー(クリスタル)なのに、「ぼく」はかなりなんとなく
クリアー(かなりはなんとなくの方にかかる修飾語です)なんですよね。なんとなくクリ
スタルなもの、これは綺麗なものです。ぼくはそう思います。少なくとも、ぼくにとって
はそう。でもこのなんとなくクリスタルなものはそれ自体なんとなくクリスタルじゃない
もの、でしょ。このなんとなくクリスタルじゃないものは綺麗じゃないものですよね、
ね。少なくとも、ぼくにとっては。そうなるはずです。なんとなくクリスタルな、つま
り、よく言えないし、よく言う必要もないこの快さは、実は、なんとなくクリスタルじゃ
ないものでもあるんでしょう。センスがよければクリスタルなところが見えてくる、同時
に、スモークの向こう側にあるものも見えるってことですかね。そのなんとなくクリスタ
ルじゃないものを見せ付けられると不快感ありますよ、ズン!と嫌だなあって。
そういう意味で、読むと不快感を感じさせる詩というのがあります。たとえば、プチブル
な(この言葉はもう古語なのだと思います)軽薄な言葉を並べた詩など。
人生なんてものを深く考える「純文学」なんて、僕にはとても美しくて。なんか卑猥です
よね、「純文学」って響き。アメリが乗ったトランデファントムのあのファントムさんは
「じゅんぶんがーああーくうう、じゅんぶんがーああーくうう、じゅんぶんがーああーく
うう」と暗闇の中、しわがれた声で彼女の耳元に囁いたんでしょうか。そういえば、囁か
れた女優さんの表情がとっても卑猥でオルガスムスっていうんですか、素敵な表情でし
た。ムスムスして心が痛かった、です。
なんで心が痛いとオルガスムスを感じるんでしょうか。それは、不快感があるから。ちょ
っと不快なものっていうのは大体に於いて美しいものです。人間性を回復するということ
なんて無理でしょうから、そもそも人間性なんて野生のものとは違う(野生/非社会性に
人間性を求めるって考えがありますが、人間が野生的/非社会的になったらセックスなん
て感じなくなっちゃうんじゃないでしょうか、よけいなお世話かな)、だから、肌のよう
な、知らないからではなくよく知っているから不快な、不可解なものなんでしょう、ね、
だから、それを回復したいなんてと思わないと思うんですよ。それは肌から刺青をとりだ
すような、刺青を剥いだ肌を人に露出するような、それこそ不快をこして醜悪でしょう。
ぼくが今紹介しようとする詩には闘っているとかというより、その点はあっさり嫌いなの
はいやなのってミトメちゃうんです。都会のひとよって。(べつに都会のかたじゃなくた
っていいんですが、ジャングルにすんでいなけりゃ)それは正しいでしょう、そうです
よ、ね。そうじゃなければ、ターザンごっこしますか、ジェーンちゃん?
読むと不快感を感じさせる詩というのがあります。たとえば、軽薄な言葉を並べた詩な
ど。それは、少なくとも私たちの世界の現実で、本物のパパとママの優しさやお庭や花壇
や、それから、ちょっとした美しい香水とか、センスのいいブランドの小物とかおいしい
お店とか、まじめな愛とか。趣味のいいテーブルクロスとか。いつもおなじです。
痛くはない、なんとなくそうなんですよ。空気とおなじです。ガス自殺する時の空気と同
じでしょう。いくら、毒がまじっていても空気を吸いたくないとは思わないのと同じで
す。空気吸わなかったら、だって死んじゃうじゃないですかあ。自殺できなくなっちゃ
う。小さなブルドックは好きよとか言って、思いっ切り痛いのが好きってひともいます
が、あとも残るし、それよりも、ちょっとだけ不快なところがいいんです。いつもいつも
おなじ。いつもいつもですよ、おなじです、よ。だって、外はないし、あっても、もっと
不快です。そのもっと不快の外へっていったら死ぬしかないでしょう。「それじゃあ」っ
て、そんな無責任な事言うあなた(読者)が好きです。
だから、よく噛んでお食事してね、それからちゃんと学校へいこうね、それからあったか
くて優しいパパの手を忘れないでね、ママのワンピースの温もりをヘルメスのスカーフの
流れる図案を忘れないで、ね。いい子にしてね。愛しているのよ。愛しているのよ。1、
2、3、4、5、6、7、8、9、10、11、12、えっ?結局数の問題?算数は嫌い
なので。えっ?

こうやって「断片」たちを

スーパーで見たあの人がおんなじかしら
愛し方を教わらなかったあの人もわたしと同じ

幼い
笑顔も思い出もわたしも
形が無くなるまで噛んでいました

石鹸水に瞬間接着剤を調合して

細い目元で微笑んでいるから
からだの内側に子供が
小さく住んでいるのだと想った

白い半ズボンと氷屋さんと金魚すくいと
暗くにじむ空に塗り重なった赤いちょうちん

新しい真っ白いワンピース
ふわふわ ふわふわ
優しい肌触りに包まれる
懐かしい
お母さんの温もり

冷やし固めて凝縮されたバターから
とけていくわたしで
あなたの体に

今は人間だから
肉と蜜に汚れを隠して
肉と蜜に体をゆだねる

六月の空はいつも不安定で
今ここにいるわたしに似ている

目覚めましたらそれはそれは
パパもママも窓の外を歩く人も皆
片方の手に小さな人が絡み付いていまして

手の方が正直な男だと思いました

放課後の静まりかえった女子トイレ金魚が一つ産み落とされる

檻越しに丸まる兎の目に似てる真っ赤に濡れたわたしの両目

ごめんなさいは
炭酸水でいう
ちょうど三十分後と同じだ

おかあさんあなたの中へもう一度

わたし
ねじが外れていなくて
あの子ではなくてよかったわ

同じポーズをして
とった写真を
くつのうらに貼って

わたし
パンパンに膨らんだ頭の中から
飛び出してきた

を集めてみても、同じ人、同じ風景、同じ単語、同じ言葉、いつもおなじいつもおなじお
なじおなじおなじ、オナジオナジオナジオナジオナジオナジです− 俺はそんなんじゃな
い、俺は、俺は、オレダケハ、この、ここにいる、オレは、違うんだ、絶対に、違うん
だ、と拳を叩いて、ぼくは読みました。何度も、叫んで、喚いて、ね。それなにも変わら
ず、いつもオナジ風の吹く白いタイルの谷の底で、小さなお嬢ちゃんが可愛い声で朗読を
つづけています。このお嬢ちゃんをねじり伏せることはかないません。このお嬢ちゃんは
作者ではありません。

読むと不快感を感じさせる詩というのがあります。(誤解なさらないで、それはとても大
切なことでしょう、私たちの現実です、)たとえば、プチブルな軽薄な言葉を並べた詩な
ど。そういうものが今の私(たち、あっ失礼しました!いや、ぼくだけ)の心で、その心
を一つの角度から細く深く鋭く突き入れたところに容子さんの詩があり、読むとなんとな
く不快感を感じさせる詩であり、たいへん美しい詩だと思います。



ひとつ、僕の観点を確認していただくために、紹介しましす:

「袖道」

振り袖の重く長い袖をひきずりながら
少しだけ急ぎ足で歩いていたの

ひたすらひたすら前だけを見て
長いかも短いかも分からない道を歩いていたの


一つ
ママの望みは叶わなかったわ
わたしね有名私立高校にはすべて落ちたの
自慢の娘になれる現実には間に合わなかったの
望みは大学に託されたわ

二つ
パパの望みも叶わなかったわ
わたしね有名女子大学にもすべて落ちたの
誇りな娘と言われ得意げだった日に戻れなかったの
望みは弟に託されたわ

小さい頃からのわたしへの
期待は跡形もなく消えてしまったの

両親共々にわたしはね
見えない見る価値のない娘になったの

価値のある娘への扉はしめきられたの

駄目な子なの
駄目な子なのよ

三つ
ママのパパの望みも叶わなかったわ
わたしはね男の人を何人かは知ってしまったの
少女のままでね二十歳向えるには待ちきれなかったの
望みはわたしには何もないわ

それでも視線をわたしへと
向けてよ見続けていてほしいの今も

しめられた扉でも隙間を開けられるでしょ

解っているわ
駄目な子なの
駄目な子なんでしょ


振り袖の重く長い袖をひきずりながら
少しだけ過去の自分歩いていたの

ひたすらひたすらわたしだけを見て
叶わないママとパパへ向けられた望み記憶を辿り

ひたすらひたすら前だけを見て
しめきられた過去の日々の袖を歩きながら
長いかも短いかも分からない今の二十歳の道を歩いていたの


まあ、べつにこれがなんというわけでもないんですけれど、そのほかの小さな赤い詩達は
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/9813/ にあります。大変失礼な言い方
で御免なさい、お会いしたことがありませんが、きっとお可愛いお嬢さんなんだろうと思
います。黄色い髪の毛の。そう、そのお嬢さんといつも傍らにいっしょにいる美しい人が
作者ではないかと思います。この作者はどれも密度のある美しい作品を書かれます。そし
て、その質に於いていつも同じ作品です。





散文(批評随筆小説等) 「袖道」 Copyright m.qyi 2004-04-02 01:31:20
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