夜想曲
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歌詞が邪魔だという彼女はクラシックをかけて
キッチンに立つ
クリーム色のソファと橙色のカーテン
長い髪がさらりとこぼれてきたのを少しうつむいて耳にかける癖
その耳にピアスはしない
痛そうだし不潔だから、と彼女は言う
彼の口に入るものだものね、とわたしは思う
ビール駄目だったよね?と彼女は言う
覚えていてくれた、とわたしは思う
お湯が沸騰する優しい音と柔らかい蒸気で
規則的なストリングスの波で
わたしは眠くなってしまって
なんとかしようともぞもぞと窓へ歩み寄り
カーテンを束ねて窓を開けて外を見る
ベランダには大きな大きなサボテンがひとつ
マリアンって名前なの、と彼女は言う
彼がつけたのかしら、とわたしは思う
それからハエトリソウ
指を差し込んでみると弱弱しく噛み付いてきたかわいい奴
まだ名前はない
飛行機のエンジン音と並ぶ電灯が見せ付ける
わたしの甘えに曖昧に応えながらも
だいじょうぶ、そばにいる、と騙しながらも
最後にはついに夜がくることを見せ付ける
ためいきをこらえて大きく吸った息が冷たいことに
肺で気がつくと
あの飛行機の中にも人がいることを思い出して窓を閉めた
部屋の中は暖かくて彼女がいて彼がいなくてほっとした
壁には彼の趣味で60年代アメリカの広告風のシリアルのポスターと、
ファンクのマスターピースレコードがたてかけてある
隣の部屋にはベッドがあって
枕は二つ並んでいた
ベッドカヴァーもクリーム色だった
ソファと一緒に買ったの、と彼女は言う
彼女はきっと左側だろう、とわたしは思う
今日はわたしの誕生日で
彼女は料理を用意してくれていて
温めなおす程度だから座っていて、と彼女は言う
彼は彼女の料理をいつも食べているのね、とわたしは思う
本棚には写真集が並んでいる
遠い国の町並み、笑顔、昆虫、廃墟、そういったもの
彼は彼女の写真もとる
そういうときの彼女はとびきりの顔をしてる
木べらとフライパンがぶつかる音がまろやかであったかい
もうすぐよ、と彼女は言う
涙が出そう、とわたしは思う
寝室で彼女の携帯電話が鳴っているのに気付いて
手の放せない彼女のかわりに取りに行く
彼女は慌てて追いかけてきて、見ないで、と言う
ああ、とわたしは思う
携帯電話の乗っているボードの真横にあるごみ箱の中を見てしまったからだ
彼女はたいてい黒い下着をつけている
ここで彼女はとびきりになる
髪は乱れて化粧も落として表情も整わずに
ひとらしくなくなり足を開いて舌を動かして
メスの器官はオスに適合するように設計されているから
合理的に彼女はただの摩擦のために心臓を早めて
とびきりになる
そして次の日の朝
黒い下着の上にさっぱりとしたシャツをきて
香水で匂いを隠し
化粧で彼の唇を防ぎ
時計を腕にはめてその日の自分を縛るのだ
今わたしのために料理する手は
昨日彼の髪をつかんだかもしれなくて
だからわたしは笑って
ごめんごめん、でももう見ちゃった、って笑って言うべきだから
そう言った
ごめんね、あなたが来るっていうのにちゃんと始末してなくって、と彼女が言う
わたしは彼と彼女の日常の輪の外にいることをしっかりと認識する
涙が出そう、とわたしは思う
リヴィングに戻る彼女の背中は
わたしの小さな手でぽんと叩かれ
彼の大きな手ですっぽりと撫でられる
すっかり準備の整ったテーブルを挟んで
彼女は髪を右の耳にかけておめでとう、と言う
おいしそうね、ありがとう、とわたしは答えて
すっかり暗くなった空は今
夕日と同じ色のカーテンで隠れているから
もう少しだけ、夜に気付かないふりをしていよう
BGMがもうすぐ変わる
ノクターンの最後はいつも胸が詰まる
デザートもあるのよ、と彼女は言う
わたしたちってほんと女の子なのね、とわたしは思う
消えたテレビの画面に映るにこにこと笑いあうわたしたち
乾杯と同時に始まった愛の夢と
フォークと皿がぶつかる音
涙は出ない、とわたしは分かっている





自由詩 夜想曲 Copyright ________ 2006-12-19 21:31:22
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