表面以外はみんな嘘
佐々宝砂

何度も書いてきたのですりきれて穴が開きそうになってきたが、私は悪人になりたいのだ。それも大嘘つきの大偽善家の大悪人に、である。できれば新興宗教の教祖みたいなのがよろしい。しかしたぶん私にそこまでの才能はない(多少はあると思ってるところが笑うべき点さw)。言っておくが、偽悪家になりたいんじゃねーぞ、偽善家になりたいのだ。偽悪なんていったら「ほんとはいいひと」でしょうが。そんなんではなくて、「ほんとはわるいひと」であるところの偽善家に、私はなりたいのである。

見た目はたいへんよいひとでなくてはならない。新興宗教の教祖というたとえではいまいちうまく伝わらないかも知れない。うーん。そうだ。ものすごくいいお手本があった。私は、ウォルト・ディズニーみたいになりたいのだった。にっこり笑って大衆を愉しませつつ自分好みの方角に連れてゆく。もしかしたらその先には崖があってみんな落ちるかも知れない。すてきー。憧れだわっ。

と書くと、私が独裁者に憧れてるかのよーに読み取るヒトがいる、かもしれない。解説を書くのは野暮でキライだが、しかたないから書けば、「悪人になりたい」などと書いてる私は、現時点「悪人ではない」。とにかく今んとこ私が悪人でも大嘘つきでも大偽善家でもないこと、それくらいは読み取ってもらいたい。そしてできれば、こんなことを正直に書く人間には、悪人になる才能や嘘つきの才能が欠けているのだ、とそこまで読んでくれたらありがたい。

さらに贅沢を言えば、現実に存在するディズニーのようなタイプに騙されないでくれよと私が願っていること、そのへんまで読んでほしい。なんてことを書くとバカバカしいほど野暮だな。でもここまで書かないと、わからんひとにはわからんのだ。そしてここまで書いても、わからんひとにはわからんのだ。

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「表面以外はみんな嘘」と言ったヒトは誰だったろう。
私はこの言葉を村上龍の小説に見つけたような記憶があるのだが、
何に載ってたか思い出せない。
アンディー・ウォーホルの描いたマリリン・モンローを見た女性が言うのだ、
「表面以外はみんな嘘」と。
それを読んだとき、わたしはあかるい気分になった。
表面以外はみんな嘘。表面以外は。ならば、真実はあるのだ。
すべてが嘘というわけではないのだ。
オモテに見えているもの、表面にあるもの、それは、紛れもなく真実だ。
内面がどんなものであろうとも。

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以前、女ばかりでチャットしているとき、好きな俳優の話になった。私は悪役とコメディのできる俳優が好き、と言ったのだが、よくわかってもらえなかった。「ツインズ」の兄ちゃん(ダニー・デヴィート)って言われたもんなあ。違うんだよお。「ロマンシング・ストーン」の小悪党じゃあないんだよ。コメディの悪役ができるヒトではなくて、コメディと悪役ができるひと、が好きなのだ。悪役のときは本気で怖い悪役でないとつまらん。まだ「ツインズ」の弟シュワルツェネッガーの方がましである。あのひと悪役やるときちんと怖いからね。

私が好きなのはケヴィン・ベーコンだ。彼は、たいして美男ではなくむしろファニー・フェイスなのに、青春映画「フット・ルース」の主役で颯爽と表舞台に出た。コメディにも出ている。なぜか「13日の金曜日」にも出ている。私は「フット・ルース」の昔からファンで「トレマーズ」なんか大萌えに萌えてみたものだったけど、本格的にこのひと好きやわあ、と思ったのは、「激流」をみたときだった。「激流」は決していい映画ではない。ほとんどケヴィン・ベーコンの悪役っぷりだけで持ってる映画である。それをいうなら「告発」も「インビジブル」も悪役ケヴィン・ベーコンがいなきゃどうしようもない映画である(「インビジブル」は映像も凄いので、彼だけで持ってるとは言えないが・・・)。

話が逸れてしまった。強引に戻す。私が好きなのは、悪役とコメディのできる俳優だ。怖がらせることも、笑わせることもできるひとだ。バカにもキチガイにも病人にもなれる、ぞっとするほど醜いものにも、かなしくなるほど愚かなものにもなれる、そういうひとだ。

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マンガ家でいうと楳図かずおだ。
楳図かずおは「表面」を重視する。
彼の作品世界において、醜い姿の者は心も醜い。
心が歪んでいる者は顔も歪む。
恐ろしい世界だろうか? 
いや私にとっては恐ろしくない、なぜなら、彼の作品世界には、嘘がない。
表面がすべてだ。
すべてが表面だ。
私もそろそろ本気を出さなくちゃならない。
そんな気がしてきた。
本気で表面をつくらなきゃならない。

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これまた何度も書いてきたことなので、書いてる本人が本当にうんざりしてきたことなのだが、やはり書いておかねばならない。私は批評を書くのをやめた。やめた理由はひとつじゃないが、一番おおきな理由は、「他者と格闘するのに疲れた」からである。と書いたはしからなんか違うな、と思ったりするくらいうまく言えなくていま困っている。うーん。「私と格闘してくれる相手がいない」と言おうか、それもなんか違うなあ、ケンカするんじゃなくて格闘したかったのにうまくいかなかった、ってなとこなのかなあ、まあいいや、ともかく私は批評をやめた。

批評をやめた二番目の理由は、「他者を潰したくないし批判したくない」ということ。世界観も感覚もひとそれぞれでよろしい。私に害がなければなんでもよろしい。もう文句言わない。共感してもしたって言わない(まあ私は一年に二回くらいしか共感しないけど)。どんなに変な考えでも、どんなに幼稚に思えても、文句言わない。だってそれは、そのひとがそのひとなりに一生懸命書いたんでしょーからね。そう思って、私は、内容に文句こくことをやめた、というか実際にはやめてなくてたまには文句言ってしまうのだが、必死に口をつぐんでいる。

しかし私はいまだに批評を乞われる。なるべくお断りするが、書いた方がいいかなと思えることもあるし、また、断れないときもある。しかたないから、内面に触れず、世界観にも感覚にも触れず、表面に関してのみ、書いてきた。だが、それすらダメなのかもしれない、と今は思い始めている。表面は重要だ。もしかしたら、誤字ですら重要なのかもしれず、訂正不可能なのかもしれない。

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しかし、もう一度言おう、
表面以外はみんな嘘。


散文(批評随筆小説等) 表面以外はみんな嘘 Copyright 佐々宝砂 2006-12-19 20:12:21
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