右へ
霜天

その言葉を初めて聞いたのは、
まだ、あなたの海にいた頃。
大きすぎる手のひらを隠そうともせず、
揺られる海の深さを世界と思っていた頃。
右へ。聞こえる、聞こえています。
右へ。手のひらを。ぐ、と握ってみせる。
右はこちらですね、私はどちらでしょうか。
右へ、右へ。ただ、それだけが聞こえる。


僕が生まれた世界は、まだどこもかしこも暖かくて。土曜日の夜にはいつも、大きなケーキを囲んで皆でお祈りをしていた。二十年後の今日も同じような青い空の一日ならいいね、と繰り返していたのは誰だっただろう。膝の上で眠る猫に、大きなあくびをしてみせる弟を、遠くの景色を思い出すような視線で、越えていく父がいて。やがて弟も、壁も、屋根も越えて、鞄を抱えていってきます、と、その日を閉じてしまった。僕は僕で、お気に入りの空色のクレヨンが見つからなくて。一番奥の部屋の襖を開けると、そこから大きな道が繋がっていて。赤や黒や銀色の車が、僕をどうしても追い抜いていくので。始まりはどこだっただろう。呼吸が苦しくなるといつも、右を確認してしまう。右手、右手、利き手、握り締めて。右はこちらです、僕はこちらです。あなたはどちらですか、僕は元気です。


私たちが、繋がりを込めて名付けた風景に。
全てが右に、緩やかに曲がっていく世界があるように、
差し伸べられた手を、右に添えて繋ぎ合わせていく。
心音が聞こえます、深く、低く、間違えようもなく。
右へ、行きなさい。全て、滞りなく進み行く世界ですから。

懐かしい、海が見えます。
右へ、右へ。ただ、それだけが聞こえて。


自由詩 右へ Copyright 霜天 2006-12-18 01:38:57
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