鉱物としての彼ら
はらだまさる

新聞とか雑誌とか、現代詩フォーラムとかブログとかmixiとかで、詩に限らず色んな人の色んな文章を読んでいるとみんなすげえなぁと思う。兎に角、文章力もセンスも読書量もすげえ奴らがいっぱいいて、ただただすげえなぁと思う。文筆に魂を売ってる奴等がゴロゴロいて、そのくせ世間的には無名できっと死ぬまでそこを、それこそ一生懸命に生きようとしている奴らが、ブチブチと細胞分裂したり、グニョグニョ繋がったり、グルグル回転したり、消えたり現れたりしてゴロゴロ、すごく美しいくせに、人目に触れ難い砂場の砂よりも小さな存在感で美しさが犇き合って、それがまるでひとつの風景のように存在している。その中で一際輝く存在に憧れたり、なろうとしたり、しなかったり、客観的にみれば、俺もその中の一人であるのは変わらないんだろうけれど、俺が好きな詩の世界に関してだけでも、本当に純粋に詩という宇宙に向き合って生きているような彼らのそれと比べると、俺は他にもやりたいことが多過ぎて、即ち、混ぜ物が多過ぎて、どうにも詩人として自分を語るには畏れ多さを感じてしまう。自分の中の不透明な混合物としての詩人が、本当に希少な透明度の高い、ダイヤモンドのような一握りの詩人と同じように語られてはいけない気がするが、それは俺個人の問題で、一般的には大いに一括りとして語られていいのだけれど、やはりそこに心苦しさがない訳ではない。別に混合物が多いから駄目な訳ではないし、不透明だけど力強い鉱物でもあるターコイズが俺は好きだし、陽光を掬い取ったかのようなゴールデントパーズの美しさや、柘榴石の、血を宝石にしたような肉感、宇宙を結晶化し現前させたような黒御影とか、それぞれがそれぞれに美しい鉱物としての詩人が、この日本だけでもゴロゴロと転がっている。俺が詩に興味があるから鉱物を詩人に喩えたけれど、それはミュージシャンでも、パティシエでも、経営者でも、医者でも、教師でも、ジャーナリストでも、陶芸家でも、デザイナーでも、画家でも、貿易商でも、営業マンでも、映像作家でも、トラックの運転手でも、学生でも、宗教家でも、ニートでも、プログラマーでも、シェフでも、花屋のバイトでも、農業者でも、パン職人でも、カメラマンでも、金持ちだろうが、貧乏だろうが、色黒だろうが、色白だろうが、アトピーでも、喘息患者でも、浮浪者でも、大人でも、子供でも、何にでも喩えられるんじゃないかと思うし、実際俺は詩人以外の彼らの存在にどれだけ救われたことだろうか。鉱物ではないけど、美しい流線型のポリカーボネイトや、使い込まれて手垢で黒ずんだ木槌に、その美しさを見出す人もいて当然だ。強度や透明度だけで詩の良し悪しを語るのもいいけれど、俺はすでに存在する彼らの、醜さも美しさもひっくるめたこの広大な詩の世界のあり方を眺望するだけで、溜息が出てしまうんだよ。自らの醜さと弱さ、不確かさに真正面から向き合う柔軟性の無さと、潔さと勇気ある鉱物としての彼らにも感謝せずにはいられないお目出度い馬鹿だよ、俺は。ありがとう。感謝されて下さい。俺は人としてもまだまだだけれど、これからもずっとこんなスタイルでやりたいことやって死んでいくよ。







未詩・独白 鉱物としての彼ら Copyright はらだまさる 2006-12-14 16:58:12
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