短歌的抒情は現代詩の敵か?
umineko

12月3日付の某朝日新聞に、小野十三郎賞贈呈式の記事が出てました。そこで、選考委員でもある詩人の金時鐘(キム・シジョン)さんの講演の要約が、本人の寄稿として載ってます。これをみて、(あーまたこれかー)と、深いため息。

前半はいいんですよ、わりと。「馴れ合っている日常からの離脱と、馴れ合っている日常に向き合うことが詩を生ましめる原動力」であり、「詩」は「現代認識における革命」であると。まあ大仰に言えばそうですよね。

でも、後半がねえ。「現代詩は思いを感じさせることより、見える物として描こうと努めるものですので、情感をそそるようなことは極力避けるようになります」とか。さらに小野氏の著書『詩論』から、「民衆の言葉の中に絶えず宿っている短歌的リリシズムへの郷愁を、詩人は断ち切らなくてはならない」というフレーズを引き、日常からの離脱を説きます。そのためには「何十年となく平俗なお上の正義を説き続けている人気番組「水戸黄門」ぐらいからは離れねばなりません」とか。うひゃー。

えーっと。

抒情や情感を排除することが詩人の目標じゃない気がするんですけどね。水戸黄門が情緒的でけしからんのなら、それを穴があくほどみて、その背後に横たうものを見極めるべきです。

全体主義は甘い言葉でやってくる。これはおそらく真実でしょう。だからといって、甘い言葉の代表たる「情感をそそる言葉」を遠ざけなさいっていうのは、別の意味での全体主義じゃないかな。

土砂降りの雨に濡れてしまっては正確な判断が出来ない、だから窓の内側からそれを眺めなさいっていうのは、それでは時代から孤立するだけだ。雨の真ん中でも流されない強さが狭義の「詩人」って気がするんだけど。この小野十三郎的精神が現在の「詩壇」の本流なんでしょうか。それはそれでどうかなあ、と。

  *  *  *  *  *

そのあと、いろいろネットで検索したら、イギリスの詩人で批評家のT・S・エリオットに行き着きました。小野はエリオットの「批評の機能」という考えをもとにして、この「短歌的抒情の否定」という命題を導きだしたらしいんですね。

でも、そのエリオットは、決してヨーロッパの文学的伝統を否定していない。それを踏まえた上で、個人の創造的活動として批評はあるべきだ、と説いています。すなわち「批評」が評価・創造といった肯定的な意味合いで用いられている。

一方小野は、日本の文化的伝統はどれもこれも湿っており、それは短歌や俳句に代表されるとして、「短歌的抒情の否定」を唱えます。それに対峙するものとして「批評」があるのだ、と。つまり彼にとって、「批評」=否定、なわけですね。非常にネガティブな態度で。

それはある意味時代の必然でしょう。つまり、小野は大正から昭和へと激動する時代に対し、無政府主義/アナキズムをよりどころとしています。その結実として「短歌的抒情の否定」があるんです。でも、アナキズム自体は、蟹工船とかその時代、大正後期ですよ。近くでは1960年代の学園紛争とか。でもまあ、さかのぼること80年前の潮流を、それを現代詩のよりどころにできるのかってことでもある。

  *  *  *  *  *

こうして眺めてみると、思想って歴史から逃れられないんだね。それはこんな、ネットの片隅だってそうなのかもしれない。

「短歌的リリシズムへの郷愁を、詩人は断ち切らなくてはならない。」

最初、なんつーことを言い放つんかこいつわ、って思ったけど、こういった背景があったんだね。ただ、それをこの時代で説く時には注意しなくちゃいけない。抒情をうたうことが負とみなされる時代もあった。それだけです。それにとらわれているのなら、「今」は書けない。

ことばは、生き物。
今をうたう。今がすべて。

 


散文(批評随筆小説等) 短歌的抒情は現代詩の敵か? Copyright umineko 2006-12-03 17:53:42
notebook Home