手首 エデンへの変容
六崎杏介


 『カッターナイフからの逃走』

手首を切る。其の或る美の宿る、しかし多分に内省的に成りがちな行為に、多くの人間が行き場の無い血液を流している。
其の、或る種捨て子の様な赤い愛への憐憫から、彼等が捨てられるに納得のゆく形態、手首への処置を考案してみた。
まずは、思い出としてカッターナイフは棺に封印しよう。カッターナイフでは「カット」にしかならない。

 
 『用具、外へ向かう愛』

カッターナイフ、それはつまり「カット」のナイフである。
例えば、絵筆で描かれた物は「絵」であり、包丁で切るのは食材であり「料理」となる。正しく用いられた道具によってあらゆるジショウは変容する。
内省に終わった血液(以後、愛と表記する)をエデンへ届かせる為に、貴方には貴方なりの処置と道具を見いださなければならない。


 『例 アートナイフ及びレターナイフ』

アートナイフ。
カッターナイフより微細な描線に適した刃物。持ち手が円筒状になっており、刃先も鋭く角度が鋭いい為、繊細な処置が望めるだろう。
大きめの文具店、画材屋などでメーカー各種の物が手に入る。
貴方が、芸術の為に愛を流すのであれば、まさに好適品といえる。その赤く愛に染まった美は、衆目に触れてこそ愛を世界に示せるだろう。包帯などで隠す事の許され無い、繊細な美。
それは「アート」ナイフで切ったのだから。
レターナイフ。
手紙の封を美しく切る為の刃物。装飾が施してある物も多く、コレクション的に扱う人もいる。
しかし、紙一枚を切る事を前提にしてある為、切れ味は非常に鈍く、処置に際しては抉る様にしなければ愛は叫ばれないだろうし、繊細な処置は望めないだろう。
しかし、問題があろうか?貴方が伝えるべきは季節の絵はがきの様な、当たり障りの無い物ではなく、真に振り絞る様な魂の一句であろう。
貴方の皮膚という封を切り裂いて現れる言葉は、神が貴方の魂を通して、世界へ宛てた手紙なのだ。
貴方が其れを誰に送るか、自由に愛は世界に触れる事が出来る。
貴方は「レター」ナイフを選択したのだ。


 『最後に、無垢である為に』

貴方は「カット」から逃走して、其の行為に、愛に意味を与えた。
その純然たる意味を守る為に、貴方はその手首を切り落とさなければならない。世界に産み落とさなければならない。
手紙は相手に届き、机に大切に仕舞われなければ意味が無く、芸術作品は作者の手を離れ、世界と様々な交歓を課せられているからだ。
そして、その手首の切断、それに必要な道具こそが最も入手が困難なのだ。
貴方と貴方の愛が世界に対して無垢である為には、その刃物には一切の意味目的があってはならない。
且つて目的無く創られた刃物が、歴史上あっただろうか?
意味の無い、ナンセンスは又イノセントであるのだ。
名状し難き刃物、其れを探す事は困難を極めるだろう。しかし、貴方が其れによって自らの愛を産み落とした時、その落下点、そここそがエデンであると、貴方は確信と幸福に満ち足りるだろう。



 酩酊と論理の破綻した寒気の地より  6咲き


散文(批評随筆小説等) 手首 エデンへの変容 Copyright 六崎杏介 2006-11-27 16:00:34
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