怨念マリモ
「Y」

「怨念だけが残るのです。身体がなくなって、感情がなくなって、さいごに、怨念だけが残るのです」
 博士が女生徒に話しかけた。博士は疲れたような顔をしている。丁寧に撫で付けられた白髪と、プレスの行き届いた白衣姿が、独特の清潔感を醸し出している。

「怨念も、感情の一種ではないのでしょうか」
 女生徒は博士に訊ねた。
「違います。それは全く違います」
 博士ははっきりとした口調で、そう答えた。
 
 十畳分程度の広さを持つ研究室は、綺麗に整理されている。本や書類はキャビネットに収納され、机の上には電話機とパソコンしか置かれていない。また、床も入念に磨き上げられている。
 窓にはブラインドが下ろされ、その手前に設えられた台に、円筒形の水槽が二つ置かれていた。それぞれの水槽の中には、緑色をした球形の物体が入っている。二つの水槽を囲むように、博士と女生徒は立っている。女生徒はタータンチェックのミニスカートとブレザーを身に付け、髪をポニー・ テイルにまとめていた。

「だけど、先生」
 女生徒は再び口を開いた。
「どうしてマリモなのでしょうか」
 そこが、問題なのです、と博士が答えた。
「どうしてマリモなのかという問いには、誰も答えることは出来ないのです。それが現時点での、専門家の見解なのです」
 そうなのですか、と女生徒がつぶやき、小さなため息をついた。
「だけど、怨念が生きながらえるために宿る生物としては、マリモが最適なのですね」
「いえ、断定はできません。我々が思いもよらない生物に、宿っている可能性はあります」
 それからしばらくの間、二人は黙り込んで二つの水槽を眺めていた。
 片方の水槽に『A』と書かれた、そしてもう片方の水槽に『F』と書かれた小さなプレートが貼り付けられている。
「この、AとかFとかは何ですか」
「安達さんと福田さんです」
「……アダチ?」
「ええ。怨念の主を示す記号です。個人名を、便宜を図ってアルファベットに置き換えたものです」
 女生徒に訊かれた博士は、そう答えた。
「そういうことですか」
「それにしても、ほんとうに綺麗。光が当たっているわけでもないのに、どうしてこれほど光っているのか、とても不思議な気がします」
 マリモの大きさは両方とも五センチ程度だった。短い糸状の藻が絡み合って、一つの塊を作っていた。Aと書かれたパネルの貼られた水槽のマリモは、糸状の藻が、ガラスのような冷たい光を発していた。
「そう。怨念が強いうちは、かなり光ります」
「人体に影響は無いのでしょうか」
「はっきりとしたことは、分かりません。この研究室に、怨念マリモは十九個あります。かなりの数です」
「先生。失礼ですが、お身体の具合はいかがですか」
「むしろ、調子は良いのです。どうも、毎日怨念の発する光を眺めているのが、体に良いようなのですよ。実際、アルファ波についてのデータということでいえば、数字は良好です」
「……先生は、どうしてこんなことに興味を持たれたのですか」
「さあ、どうでしょうかね」
 博士は、わずかに首をかしげる。
「私も、これが専門と言うわけではないし、好奇心の理由を説明するのは、容易なことではありませんからね」

 人の身体が喪われても、気配は残ることがあるということに博士が気付いたのは、父親が自殺した直後のことだった。興味があって養殖していたマリモの色が変わったのと同時に、死後も家に残り続けていた亡父の気配が消えた。

「怨念」という言葉を使うことが正しいことなのか、いまでも時々迷う事がある。霊では無いし、気配という言葉では弱いような気がする。
 怨念マリモを育てるようになって、家族を喪った人々に目を向けるようになってから、家の中に死者の気配が残っていて、それを気にかけている遺族が少なくないことに気がついた。
 博士はそのような家庭があるのを聞くと、マリモを携えて訪ねていった。
 一晩家の中に置いておくと、マリモは必ず怨念を宿らせ、ぼうっと光りだす。
 「光が消えるまで、毎日話しかけてあげてください。光が消えたら、マリモを引き取りにお伺いいたします」
 博士は遺族にそう言い残して、その家から立ち去るのだった。
 
 怨念マリモを本格的に研究する意向を周囲に表明した直後、博士は研究室で手首を切って自殺した。
 持病の欝が悪化したのが原因だった。

 告別式の後、女生徒は研究室を訪れた。
「大変なことになりましたね」
 女生徒の言葉に、若い女の助手は涙を流した。
「身近な人が亡くなるというのは、実に不思議なものですね」
「……」
「あなたは、感じませんか? わたしたちのすぐ傍で、まだ呼吸をしているような……」
 もちろん、感じますとも、と女生徒は言った。「発作的に切ってしまったのでしょうね。死んだ後に、後悔したのでしょう」
 助手は放心したように、研究室の隅に置かれた物体を見つめていた。それは、円筒形の水槽に入れられた、小さなマリモだった。マリモは薄桃色の光を、規則的に発している。まるで、呼吸をしているかのようだった。
「あれは、何ですか」
「あなたは、ご存知でしたよね。怨念の……」
 それは、存じておりますが、一体誰のものなのでしょう、と女生徒が問いかけると、助手は黙って首を振った。
「名札が付いていないのです。他のマリモは全て、遺族の方々にお返ししたのですが……」
 女生徒と助手は、無言のまま、顔を見合わせた。

 現在そのマリモは、円柱形の水槽に入れられて、女生徒の部屋に置かれている。勉強の合間に女生徒は、机の上に置かれたマリモを無言のまま眺める。マリモは女生徒のまなざしに応えるように、ぼうっと薄桃色の光を発する。
 マリモの光は徐々に、淡く、弱いものに変化してきている。
「あと半年もすれば、光も消えるね」
 マリモを見つめながら、女生徒はそっとつぶやく。
「そうしたら、湖に帰してあげるからね」
(了)



散文(批評随筆小説等) 怨念マリモ Copyright 「Y」 2006-11-08 18:54:25
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