肺 茸
「Y」
「それを喰べるかどうかは、もちろん患者の自由ですよ」
カルテを一瞥して医者は俺に言い、ニヤリと笑った。
俺もつられてニヤリと笑ったものの、気分的には最悪だった。
俺の肺の中には、キノコが生い茂っている。
キノコの名前は、「肺茸」だ。
自覚症状はあった。
十月末に咳がやたらと出て止まらなくなったとき、俺は単なる風邪だとばかり思い込んでいた。
喉のあたりにムズ痒さがあったので、会社から帰ってきたら、毎日うがいをするようにした。
自慢じゃないが、俺は健康に自信があるほうだ。
学生時代はずっとスポーツをやっていたし、風邪だって、年に一度ひくかひかないかだ。
だから、今回の咳についても、俺は高を括っていた。
一週間もすれば自然に収まると信じて疑わなかった。
だが、咳の激しさは日を追うごとに昂じてきて、おまけに喉ぜんたいを覆っていたムズ痒さが、徐々に下へと降りていった。
「肺が痒いんです」
二週間後、辛抱できなくなって会社の近くの医者に駆け込んだ俺は、初老の院長に向かってそういった。
「肺が痒い? あんた、面白いこと言うね。軽い感冒だろう。念のためにレントゲン撮っておこうか」
医者はアクビ交じりの反応を俺に寄越した。
医者の態度が変わったのは、出来上がったレントゲン写真を見てからだ。
「あ、こりゃウチじゃ駄目だ。感冒じゃないよこれは。ほら、ここんところを見て」
医者はレントゲン写真の真中あたりをボールペンの先で突付きながら俺に促した。
「この白い、ヒダヒダみたいになってる奴ね」
「あ〜このデコボコしたところですか」
「そう。これ。これねえ、キノコだよ。キノコ。かなり進んでるよ」
「え?キノコ、ですか?」
「そう。キノコ。もうね、ビッシリだよ。ビッシリ」
医者は徐々に興奮し始め、顔を紅潮させ、頬の辺りをピクピクさせながら言った。
「けっこうイケルらしいよ。肺茸。シーズンだしね」
翌日、会社を休んで大学病院に言った俺は、直ちに手術を受ける事になった。
手術はすぐに済んだ。
「はい。お土産」
病院からの帰りしな、看護婦が俺に渡してくれたのは、ザル一杯に盛られた「肺茸」だった。
「…… 」
帰宅した俺を、妻は無言で出迎えた。
「おいおい、お帰りなさいぐらい言ったらどうだ。手術も無事に済んだんだ。ちょっとぐらい喜べよ」
そう言いながら俺は、肺茸の盛られたザルを妻に手渡そうとした。
「キャッ」
妻は手を引っ込めて飛び上がった。
「おいおい。何なんだよ」
「だって、それ、肺から取れたんでしょう? 」
「そうだよ。摘みたてのホヤホヤだよ。美味しいんだってよ。新鮮なうちに、一緒に食べようや。な? 」
「……嫌、気持ち悪い。私、食べたくない」
妻は泣き出してしまった。
結局、肺茸は天ぷらにして食べる事にした。
正直言って、自分の体内から採れたものとはいえ、一人で食べるのには俺にも少々抵抗があった。だから俺は、妻も「道連れ」にしようと考え、熱心に彼女を説得した。嫌がる妻をなだめるのは骨が折れたが、結局彼女は、俺と一緒に肺茸を食べる事に同意してくれた。
テーブルの上で香ばしい匂いを立てている揚げたての肺茸を、妻は無言のまま見詰めていた。
「ほれ」
コップを突き出し、ビールを注ぐように妻に促すと、妻は一瞬、びくんッと身を震わせた。
「あ、ゴメンなさい」
ビールが程よい量の泡を立てながらグラスに注がれていく。
俺は妻のグラスにビールを注いでやった。
準備は整った。
「ねえ、ちょっと黒ずんでるね」
呟くように妻が言った。
椎茸をうんと小ぶりにしたような形状の、夥しい量の肺茸が、皿の上に載っている。
こんがりと良い色に揚がっているが、肺茸そのものの色は、妻が言うように、かなり黒ずんでいる。
「そう? いい色してると思うよ。なにしろ新鮮だし、医者も太鼓判を押していたよ」
「太鼓判?」
「そう。肺茸は美味しいと評判らしい」
「ウソ! 信じられないわ」
「嘘とはなんだ。失礼な」
「……ゴメンなさい」
「お前、先に食べなさい」
「結構です。あなたから先に食べて」
「うん。だけど、お前も絶対に食べるんだぞ」
「……」
俺は肺茸に塩をまぶして、口の中に放り込んだ。妻は極度に緊張した面持ちで、俺の顔を見詰めている。
「どう? 」
「うん。旨い」
俺は余勢を買って、もう一切れ口に入れた。
肺茸は、コリコリして美味かった。いがいとアッサリしている。
「うん、香りもなかなかいいよ。……さあ、お前も食べなさい」
妻は何ともいえない表情を浮かべながら肺茸を箸でつまんだ。箸の先が小刻みに震えている。
「はぐッ」
妻は目を固くつぶり、顔を歪めながら、肺茸を口の中に押し込んだ。
と、次の瞬間、
「うっぷッ」
口を押さえて妻が椅子を鳴らしながら立ち上がった。半分白目を剥いている。
慌しくスリッパを鳴らしながら洗面所に駆け込んだ。
「げ〜〜〜〜〜〜ッ……うげぅエ〜〜〜〜〜〜ッ」
妻の激しいゲロの音はなかなか止まなかった。
俺はテレビをつけ、ビールを注いだ。テレビには、日本シリーズの日本ハムの優勝の瞬間が映っていた。
肺茸に塩をまぶす。つまんで口の中に放り込む。
美味い。お世辞抜きに美味い。
テレビに落合監督の顔がちらりと映った。
落合監督は、おだやかな微笑を浮かべていた。
すこし寂しそうだった。