HALLOWEEN
10010

■do()while(x != EOW)      //the End Of the World


■Hello world
大抵のプログラミング言語ではこのフレーズを画面に表示させるプログラムが、最も初歩的な例題として学ばれる。それは魔術という言語(真の外国語)に於いても例外ではない。Hello world。それは挨拶である。Hello world。それはe→o→aというウムラウト(母音交替)により、Hello/Hollow/Hallowと活用変化する。Hello(こんにちは)、Hollow(うつろな・空虚な)、Hallow(聖なる)。


■Halloween
この語はHallow Eveの略語であり、本来の意味は「諸聖人(Hallow)の祝日の前夜(イヴ)」である。

諸聖人の祝日の前夜には、しかし聖なるものどもどころか、魑魅魍魎、妖怪変化が跋扈する。これらの物の怪たちは、キリスト教が入る以前の、先住ケルト人たちの土着の信仰と祭りに由来しており、その上に、翌11月1日のキリスト教による「諸聖人たちの祝日」が上書きされたのだ。したがって、祝日の暦の上でキリスト教に先行するモンスターたちは、その歴史的由来に関してもキリスト教に先行している。

これと似たような事例は他にもあって、たとえば「リリス」がそうである。リリスはイヴよりも早く、アダムの最初の妻であると言われる。



『創世記』1章27節のくだり「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女にかたどって創造された」(アダムの肋骨からエヴァが誕生する前の節である)は、アダムにはエヴァ以前に妻がいたということだ、と信じられることがある。




このようにリリスは創世記という物語の中で、明示されないまま曖昧な虚焦点のような存在として、イヴに先行するアダムの妻の役割を果たしている(この曖昧さが何を意味するかについては以前述べたことがある)。

だが、リリスは、その歴史的由来という点から観ると、シュメールあるいはメソポタミアのモンスターであって、バビロン捕囚されたユダヤ人たちがそこでリリスについて伝え聞き、後に文献としての聖書が形を取り編纂され、イザヤ書その他で言及されるようになる。とすれば、ここでも、リリスという神話的存在は、歴史的にも、そして物語の中で担う役割から言っても、二重の意味で、聖書に、つまり「聖なるもの(Hallow)」に先行するモンスターだと言えよう。ハロウィンのモンスター同様に。発生論的に「先行」するものは、またどのような物語で上書きしようとも形を変えて物語の中にその痕跡を残しに来る。


あるいは、イヴ(アダムの妻)のイヴ(前夜)としてのリリス。「EVE」の文字があるところには、それがハロウィンであれ、クリスマスイヴであれ、リリスの影が、しかし影だけがちらつく(なんといっても彼女は夜魔だから)。あるいは――君は「誕生日よりも早く生まれた男」のことを聞いたことがあるだろうか? それこそが不可能な「処女懐胎」の秘密であるとすれば? 自分の誕生日よりも早く生まれた男。リリンとしてあの馬小屋で生まれた「ECCE HOMO(ただの人!)」・・・・・・。



■the End of the World
最初に示したプログラムは、文字列を繰り返し出力し続ける。いつまで? どこまで? ――「世界の果てEOW」まで!

Pilgrim。「世界の果て」まで巡礼すること。そしてついに、世界そのものが、いたるところが「世界の果て」であると知り、むしろそのことを告げ知らせる旅になる。そうして巡礼は伝道の旅に変わる。世界の中のどの点も、隣の点を、世界の外の「無」から防御するためのものではないと知る。無は世界の果て近くなるまで考える必要のないものではなくて、どの点も一様に無に野晒しにされながら、むしろ無として、ツェランの薔薇のように咲き誇る。讃えられてあれ、無の――名もなきものの薔薇。


「世界の果て」によって容器=子宮解釈が破砕され、宙づりにされてしまった後、世界はもはや「内部」という概念を持たない。「内部」という概念から見れば、それは中身のくり抜かれた、うつろで空虚な(hollow)カボチャのようだ。でも、「The Nightmare Before Christmas」は、hollowな者たちに命を吹き込んでくれたよね? そういえばこの映画はまさに、ふたつのイヴ、ハロウィン(Hallow Eve)とクリスマスイヴ(Christmas Eve)、Hollowな者たちとHallowな者たちの映画だった。Beforeという前置詞さえもが、繰り返し現れるEVE「前夜」の象徴であり、Lilith「リリス」の暗号。


なんにせよ、EVE「前夜」というものは、いつだって「前夜祭」なのだ。そしてそれは、木村敏のいうような分裂病を示すante festum(祭りの前)的感覚ではない。前夜祭とは、「祭りの前」ではなく、祭り自体が前なのであり、ante=festumとして、EVEという現象それ自体が楽しまれる。


■Jack o'Lantern(カボチャ)とJack-in-the-box(びっくり箱)

ふたりのジャックが居る。
ジャックオランタンとジャックインザボックス。

パンドラの箱(すべての=贈り物、存在するすべてAlles, was es gibt)から外に勢いよく飛び出したJackをバネあるいはハイフンの鎖から解き放ち(その場から動かさないまま、しかし鎖というシステムを宙づりにしaufheben)、したがって「ハイフンの鎖の上で」解き放ち、Jackは「内部」や「連結された塊」という観念をもはや持たない、うつろで空虚な(hollow)Jack o'Lanternになる。

Jack、この固有名にしてほとんど代名詞のように言い回されるもの。ジャック、ジャック、「前夜」としてのヨハネ(John)の愛称――。


■Hello world
そして世界に挨拶する。

「挨拶」は、二人称と三人称の境界に位置する。それが最初から最後まで徹頭徹尾、まったき二人称的な概念なら、そもそも「挨拶」という契機は必要とされない。したがって、それはひとつには本質的に「敬称二人称」を表す三人称(ドイツ語のSie、イタリア語のLei)と関係がある。しかし他方、敬称を示すもうひとつの方法、つまり人称ではなく、数を複数にすることでなされる敬称というものもある。たとえば上記のドイツ語のSieは人称だけでなく数も複数化されているし、他にもフランス語のVous、古くはヘブライ語のエロヒムに見られる「複数敬称」がある。エロヒムは、エル(神)の複数形であり、創世記の冒頭で唯一神がアダムを「"われわれ"に似せて」創造したとあるのは、最高の敬称表現なのであって、複数の唯一神が居るということではない。

敬称、「尊きもの」に対する代名詞の選び方は、人称の軸と数の軸の両方について、混乱を見せる。それはむしろ、人称と数のマトリックス(表)上にはなく、その境界、隙間に潜む。「敬称」というのは、それ自体独自の人称、あるいはもはや人称ではない別の存在だ。「尊きもの」、それは誰か? それは名前だろうか?


ところで、「エロヒム」が人間を創造したところを、創世記からもう少し引用しておこう。



神は言われた。 「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」
神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。




前半は、「我々」エロヒムの複数性・敬称性、ひいては「挨拶」に関わる問題である。後半はしかし、「男と女に創造された」とあり、もっと後に神がアダムの肋骨からイヴを創造する次の箇所



人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
人は言った。 「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉。 これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」




よりも前に「男と女」が創造されていたことを示しており、これこそが「アダムの最初の妻」としてのリリス、イヴのイヴとしてのリリスが影を落とし聖書に忍び込むところであった。


■Halo



真空溶媒 (Eine Phantasie im Morgen) /宮沢賢治


融銅はまだ眩(くら)めかず

白いハロウも燃えたたず

地平線ばかり明るくなつたり陰(かげ)つたり

はんぶん溶けたり澱んだり




ハロウ。月や太陽の「暈」、とも「後光」、とも訳されるHaloはまたキリスト教図像学に於けるいわゆる「アウラ」でもある。アウラは、本来、死したのち復活し昇天したイエスを象徴するもので、半ば「この世ならざるもの」として聖別(Hallow)するための記号であった。自分の誕生日の前日に生まれ、自分の死後に再び生まれた男。最も普通の人でありながら、最も一度も普通に生きたことのない者。

アウラは「この=世界」の境界である「世界の果てEOW」を示唆し、さながらベンヤミンのアウラのように、世界内部を分節していた境界とは比べものにならないほど強力な境界線で以て事象をそれ固有なものとして輝かせる。しかしアウラそれ自体は見ることができない。なぜなら見るとは光によって見るということだが、光そのものは見ることができないからだ(これは「目は目を見られない」という疑わしい命題よりも遙かに確かなことだ)。果て、あるいは地平線は、見られるものではなく(「地平線」をほんとうに見た水夫も海賊も居ない)、ただ存在して、あるいは存在せず光と影の境界で佇んでいるだけのものだ。繰り返し、繰り返し。


地平線ばかり明るくなつたり陰(かげ)つたり

はんぶん溶けたり澱んだり


■SALVE REGINA

そして聖なる挨拶が交わされる。世界の果てで。否、もはや世界という果て(the End Is the World)で。挨拶というものは、境界上で、知っている人に対してもあたかも彼がまだ名もなきものであるかのように、声をかけることであるから。

Hello/Hollow/Hallowのウムラウトする三段活用を学んだ君は、しかし詰まるところ、まったく同じひとつのことについて繰り返し繰り返し語っていたのだ。Hello/Hollow/Hallowは、e/o/aのウムラウトといっても、綴りが変化するだけで、発音は「ハロウ」のまま変わらない。プログラムは、ルーチンを繰り返す。変数xが世界の果てEOWに到達するまで、ずっと。変数x――あるいはギリシャ文字χ、キリストを示す頭文字、「半人は変数である(そして変数は個体をシミュレートする――lim x=a)」。

「EVE」という現象は、個体の手前、個体未満、個体の平方根である半人の寓意である。Jack o'LanternもLilithも共に、物語の中でも歴史的由来の上でも、Hallowなものに先行するHollowなものであり、むしろThe Nightmare Before Christmasが示すように、むしろその関係を暴き出し、イヴのイヴを引き出してみせることが、HallowとHollowを同じひとつのハロウにする。それだから、EVEは祝われねばならない。祭りとは「明日」あるものではなく、「前夜」こそが祭りなのだ。前日である−ということ。祭りそして世界の果てに接する高揚感それ自体を独立した存在へと昇華し、力を向け変えて、それ自体を享受して祝うこと。無数の精霊や、魔女や、死者や、つまりは溢れ出ようとする形なき存在者の一切を含めて言祝ぐこと。Jackを解き放つこと。Jackを繋ぐ時の鎖の関節を外すこと(out of joint)。前から読んでもEVE、後ろから読んでもEVE、そこでは時間の矢は前後感覚を失い、暦は空転しだし、EVE「前夜」はそれ自体、祝祭の時の鐘を打つ。


すべての魔術師は夜、それも前夜に住む。この巨大な言語機械の中で、魔術師は「真の外国語」によってプログラミングをする。ウムラウト、アナグラム、メタファー……。魔術は、呪文や、ものの真の名といった、外国語の習得に似ているところもあるが、それは見せかけに過ぎない。魔術とは、母語さえもあたかも外国語のように驚きを以て話す、ということに存するのだから。それは事物への独特の愛し方、びっくり箱のジャックのように驚き、驚かせ、未知のものであるかのように交渉し、表現する。ちょっとずる賢い、ヨロコビを知る子供たちのように――


「挨拶」という魔法もまた同じことだ。
さて、玄関を開けて、それでは「真の外国語」による挨拶を教えましょう。


■Trick or Treat!

「お菓子をくれなきゃ悪戯しちゃうぞ!」










■EOF    //the End Of File


自由詩 HALLOWEEN Copyright 10010 2006-10-29 21:58:51
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