子規の句 猫と犬
A-29
がさゝと猫の上りし芭蕉哉 子規 明治二十八年作。〈季〉芭蕉・秋
猫が草木によじ登った。ただそれだけの句。しかし「がさゝ」という擬声語が存分に効果を発揮し、一語で猫という生き物の在りようや芭蕉という草本植物の質感までも写しとっている。そう言ってよくないだろうか。根本的なオプティミズムに支えられた写生という方法論によって、明治のとある日のとある心象が一句のうちに平和裏に固定された。叙景すなわち叙情といってよさそう。
犬が来て水のむ音の夜寒哉 子規 同三十年作。〈季〉夜寒・秋
私は猫好きなので猫が先になったが、こちらは犬の句。野良犬だろう。音を取り立てて聴覚に訴えたという点は前句と同じ趣向。が、こちらは音の出どころを戸外に配し、その視認性を完全に封じるという徹底性が貫かれている。見ぬ写生。そう言っていいとすれば、写生が必ずしも視覚によるものでないことが理解できる。
ところで、子規は『犬』(明治三十三年発表。『日本の名随筆76 犬』作品社)という一文のなかで、自分の前世はある業の深い犬であり、大病にとことん打ち毀されてゆく現世のこのありさまはその犬の宿業によるものではないかと思うと記している。それは例によって悲惨な話しだがつい笑ってしまう子規的ユーモアを含む一文だ。
ひょっとすると、この句もそういう二面性を孕むのかもしれない。秋の寒々とした夜に勝手にやって来て水だけ飲んで走り去る野良犬。しんとした寂しさがよけいに強調されもするが、気ままな野良犬の命の温もりが感じられなくもない。そしてついそんなものに共振してしまう子規であるとすればまだ救いはあるように思われる。しかし、この野良犬がじつは死神の権化であったとなれば「夜寒」の深さは一気に無限大と化してしまう。真性のオプティミズムであればこそ、木登り猫でも脊髄カリエスの死神でも分け隔てなく写し取ってしまうのだろうか。
ああ、やっぱ猫が好きかも。