その2俳句の非ジョーシキ
佐々宝砂

このシリーズは「俳句の非ジョーシキ」であって「俳句のジョーシキ」ではない。勘違いしてる向きがあるとびみょーになんだから、念のため。

さて、ジョーシキを蹴飛ばす前にジョーシキを認識しておけということは書いたが、もうひとつ考えておかねばならないことがあった。つまり、ジョーシキがなにゆえジョーシキとされてきたかということだ。なぜ季重なりはいけないのか。なぜ切れ字のダブりがダメなのか。これらの問いに答はただひとつ。

季重なりの代表句「目には青葉山ほととぎす初鰹」が未だに受けるのは、それがいかにも「初夏!」だからだが、その手の俳句を許すと同種のものがいくらでも簡単にできてしまう。「目には青葉…」がまあよしとされているのは、それが、同じ季節のものとはいえ目と耳と舌とみっつの異なる感覚を並列しているからだと思う。「いぬふぐりたんぽぽ摘んで新入生」でいかにも「春!」だとか、「雪の中コート襟立てクリスマス」で「冬!」だとかいうのは、俳句というより季語を並べただけのものに過ぎない。似たような情緒を醸し出すものの並列を、俳句では「つきすぎる」といって嫌う。なるべく意外性のあるものをくっつけてみせるほうが、より俳句らしいのだ。短い字数の中に似たようなものを並べるのでは、字数がもったいない。

切れ字についても、似たようなことが言える。「つきすぎて」いなければ、つまり、意外性のあるものを並べているならば、ぎりぎりのところで切れ字のダブりが許される。「や」「けり」とふたつの切れ字がある有名句「降る雪や明治は遠くなりにけり」が名句として許されているのは、「降る雪」と「明治」という意外性のあるふたつのものが半ば強引に結びつけられ、しかも読者をどこか深いところで納得させるからである。こういう俳句を書くのは、当然のことながら、むずかしい。普通人が書くと、ただ単に余分な切れ字があるという感じになる。

だいたい「降る雪」という言い方ですら、俳句は嫌う。「雪」は積もるか降るか溶けるかどれかしかないからで、「雪」というだけでもかまわない場合が多い。「花」にしても同じで、「花」は咲くか枯れるかしおれるか、あるいは摘むか生けるかくらいしかないから、たいてい「花」と言って済ます。または「薔薇」など花の名前だけで済ます。わざわざ「薔薇の花」「薔薇咲く」「咲く花」「花咲く」とは言わない。まして「薔薇の木に薔薇の花咲く」とは言わない。それだけじゃない、さらに言葉を削りたがる俳句界の人々は、単に「花」というだけで「桜」を指すということにしてしまった。まあ俳句の人だけでなく普通の人も、意識せず「桜」のことを「花」と呼ぶ。「花見」と言えば「梅見」の場合もあるがたいていは「桜見」のことである(ちなみに「花」という全体の呼称で「桜」という一部を示すたぐいの比喩を「提喩」という)。この手の俳句的感性による省略は、さらに「花疲れ」(花見で疲れること)、「花衣」(花見のとき着る服)、「花曇」(花見のころの曇りがちな天気)などの言葉を生んだ。俳句の世界でしか通用しない言葉ではあるが、この手の言葉を使えば、短いなかに複雑な気持ちをこめられる。

俳句の決まり事が生まれた理由は、ただひたすら、俳句が短いからだ。なにしろ十七音。余分なことは書けない。できるだけ無駄を省きたい。人々に共通な情緒を思い浮かべさせる「季語」、「季重なり」の忌避、「切れ字」ダブりの忌避、すべて言葉を省くためのテクニック。こうやって省いて削ってようやく残ったもの、それが俳句というものなのだ。


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川柳と俳句の違いに関して、ちょっといい例を思い出した。尾崎放哉「せきをしてもひとり」が俳句で、江戸の古川柳「屁をひつてをかしくもなし独り者」が川柳だー。こりゃ間違いない。どっちも孤独だが、片方は咳で片方は屁。ちなみに「咳」は冬の季語。「くしゃみ」も昔は冬の季語だったが、きょうびは春の季語かもしれない。

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俳句のことを考えていると、なぜか「自由」という気恥ずかしい言葉が思い出されてならない。決まり事のたくさんある俳句は、不自由なものだろうか? 私はそう思わない。季重なりを避けることによって、似たようなものを避けようという気持ちが生まれ、かえって自由なものとものとの結びつきが浮かんでくる。

俳句から話が離れるが、テッド・チャンの「顔の美醜について」(『あなたの人生の物語』に収録)を読んでいて、「私はつまり自由になりたいんだな」と思った。チャンの小説は、顔の美醜を顔の認識から離れさせる装置「カリー」というものを提案することによって、人がいかに顔の美醜に縛られているかを説く。美人がシャンプーのCMで髪をなびかせれば、そのシャンプーがいいもののように思えてくるが、実際は使ってみなきゃわからない。使ってみたところで、「これを使えばきれいになる」という思いこみがあったとしたら、正確な判断はできない。美人を見て「きれいだなー」と思うのは気持ちいいことだけれど、自分の判断が鈍るのはいやだ。「カリー」が存在するなら、私は使ってみたい。顔の美醜という枷から自由になってみたい(まあ、常にカリーをつけていたいとは思わないけど)。しかるに「言葉の美醜」というものから自由になったら、私には、どんな世界が見えるのだろう。言葉の意味が直接に伝わるようになるのだろうか。ニュースの文体と言葉遊びの文体が同じように見えるのだろうか。これは「顔の美醜」よりややこしい問題だ。言葉の世界では、スタイルと内容が明確に結びついているからである。一方、「顔の美醜」と「性格」は、ほんとははっきり結びついたものではない。美人みなタカビーではないし、ブスみなひがみっぽい、ということもない。性別についても同様だ。女がみな女らしいということはないし、男がみな男っぽいということもない。

私は自由になりたい。自由に言葉を使いたい。「つきすぎる」感性から自由になって、自由にものとものとを結びつけたい。春はそよそよ優しい風が吹き、初夏は爽やかに新緑が映え、秋は人恋しげに落ち葉が舞い、冬はうらさびしく冬ざれて……そういう「つきすぎる」言葉が歌う世界は不自由だ。全然面白くない。その手の常識は空の向こうに思い切り蹴飛ばしてしまえ。

「つきすぎる」ものを嫌う俳句は、ほんとは非ジョーシキの最前衛なのである。


散文(批評随筆小説等) その2俳句の非ジョーシキ Copyright 佐々宝砂 2004-03-10 13:46:26
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俳句の非ジョーシキ(トンデモ俳句入門)