「 漬けられた夜。 」
PULL.
一。
バットマンの乳首は黒い。
そんなことを考えていると、
玄関のチャイムが鳴った。
テレビを消し、
けだるく返事をして立ち上がる。
足下がふらついた。
もう三日も寝ていない。
ずっと考えに取り憑かれている。
重い体を引きずり、
廊下を通り玄関に向かう。
床に積もった埃が、
一歩進むごとに、
ずるずると掃かれてゆく。
ようやく玄関にたどり着く。
扉を開けると、
白い制服を着た男が立っていた。
男が口を開いた。
「宅急便です。」
制服よりも白い歯が、
嫌みなぐらい眩しかった。
二。
受け取りにサインをしながら、
差出人の名前を確認する。
妻からだった。
配達員が段ボールを抱えて戻ってくる。
彼は嫌みに白い歯だけではなく、
嫌に白い肌もしていた。
汗で張り付いた白い制服が、
同化したもうひとつの皮膚のようだった。
きっと乳首も白いのだろうと見ると、
やけに黒い乳首が、
黒点のようにふたつ、
白い制服の胸から透けて見えた。
彼はバットマンの親戚か、
その又従兄弟なのかもしれない。
「お荷物はこれだけです。
本日はご利用ありがとうございました。」
玄関に段ボールを置き、
そう一礼すると、
配達員になりすましたバットマンの一味は、
そそくさと帰って行った。
後には段ボールと、
わたしだけが残された。
三。
妻からの配達物ははじめてだった。
いや。
あの日以来、
これが妻から来たはじめての、
「なにか」だった。
三年前のあの日、
水戸の学会に出掛けたきり、
妻は帰って来ない。
それからずっと、
妻からは何の連絡もなく。
わたしはこの部屋で、
ただ彼女を待ち続けている。
あの朝、
晴れやかな顔で、
出掛けて行った妻の顔が、
今も忘れられない。
あれが彼女を見た最後だった。
四。
段ボールを抱えて部屋に戻る。
段ボールはとても重く、
一歩進むごとにまたさらに、
重くなるようだ。
五。
段ボールを開けると、
大きな瓶が入っていた。
瓶の中には、
透明な液体が入っている。
斜めにすると、
それはどろりと揺れた。
六。
他には何もなかった。
手紙もメモも、
妻の行き先を示すものは、
何も入っていなかった。
七。
わたしはひとりだった。
八。
テレビを付ける。
画面の向こうのバットマンは、
やはり乳首が黒い。
だが乳首の黒いバットマンには、
いつも彼の敵と味方がいた。
わたしはテレビを掴み、
壁に叩き付けた。
九。
壁は柔らかく、
まるで肉のように、
テレビを受け止めた。
もう一度叩き付ける。
壁はテレビを受け止める。
大きく振り上げ、
渾身の力を込めて、
またテレビを叩き付ける。
壁はずぬりとテレビを飲み込んだ。
テレビを飲み込んだ壁は、
テレビそのものになった。
テレビはその壁いっぱいに、
バットマンの黒い乳首を映し、
ずぬりずぬりと笑う。
笑うたび、
部屋全体が肉のように震え、
照明が点滅して、
画面が瞬きをする。
わたしは大声を上げ、
テレビに体当たりした。
肉の感触の後、
わたしは弾き飛ばされ、
画面も弾けるように消えた。
十。
真っ暗闇の中。
部屋と壁が肉になり、
ずぬりずぬりと震えて笑っている。
それは嗤っているようでもあり、
泣き笑っているようでもあった。
ずぬりずぬり。
ずぬりずぬり。
笑いは徐々に弱まり、
やがて消え、
壁は壁に戻った。
引きちぎられたコンセントのコードが、
線香花火のように火花を散らし、
テレビを懐かしんでいた。
十一。
月が出ていた。
窓から差し込む月の光が、
部屋の中を薄く照らす。
瓶が仄かに蒼く、
灯っていた。
十二。
瓶を開ける。
蒼く灯る液体が、
どろりと揺れている。
指で掬うと、
糸を引いて垂れた。
口に含む。
甘酸っぱい。
口内に広がる。
どこか懐かしい味。
瓶を頭上に掲げる。
頭から被った。
三年間漬けられたそれは、
ひんやりと冴えていた。
十三。
魔天楼を突き破り、
夜に飛び出す。
わたしは糸を引き、
夜に消えた。
了。