死体観=廃墟観についての考察
朽木 裕

唐突のようではあるが私の中に歴然としてある、死体観及び廃墟観について述べたいと思う。死体観などと云う言葉はないけれど、詰まり「私にとって死体とは何か」を今ここに記したいのである。

死体は、死んでいながらそこに在ると云う非常に不可思議な物体である。死ぬ、と一概に云うと親しくしていたその人が居なくなってしまう、そう思い人は哀しむのだろうが死体と云うのは何か哀しみとは違う所にあるような気がしてならない。勿論そう言い切れる筈もない程「死」とは深遠であるのだが。

死んでいるが存在している。存在はしているが「それ」は死んでいる。ここにアンバランスさが生じる。考えてみれば非常な違和感である。死んだ身体は生き返りはしないがこれ以上死にもしない。ある意味で本当に死ぬのは火葬の時だと私は思う。詰まり私にとって死ぬというのは二段階あって一に、命を絶たれる。二に、身体を損なわれる。ここに二つの死が存在する。その間にあるアンバランスさが私にとっての死体観である。

次に廃墟観を述べたい。私にとって廃墟とは特別な意味を持つ場所である。廃墟に関する資料や、廃墟そのものに惹かれるようになったのは、かれこれ6年前のことであるが趣味である写真の単なる被写体として、であった。

その認識が変わったのは試験勉強のため出掛けた県図書館で出会った一冊の写真集からである。

香港にある歴史的建築物、九龍城砦の写真。それは全頁モノクロォムでありながらものすごく雄弁に語りかけてきた。建築物と云うよりは実際の住居。それもとんでもない人数の人々が居を構えているそれは法の目をかいくぐって違法な増築を繰り返した文字通りの砦。高層のアパートは町ひとつ分くらいの広さだけ聳えたち、それぞれの棟、それぞれの階が改築で複雑に行き来する。中はさながら迷路で外観はさながら静かな狂気を内包した奇跡。

そんな巨大住居に住んでいた数百、数千、数万の人々が砦から姿を消していく。初めから廃墟然としていたそこに唯一生きている姿をさらけ出していた膨大な洗濯物もついには姿を消した。国の介入である。静かな狂気を内包した奇跡はこうして廃墟となり生きることとなるのだ。

ここで話を戻したい。死体観=廃墟観の話である。廃墟と云うものは、きちんと用途を果たしていた頃に比べ死んでいる。けれども死にながら存在している。いわば死体としての存在である。廃墟にとって本当の死とは解体なのだろう。

廃墟として長らく生きてきた砦の解体のその瞬間。
クレーンの一振りは砦に本当の意味での死を与えた。

一度目の死に私は心惹かれ、二度目の死に私は恐れおののくのである。死んでも尚、存在し続けるとは一体どのような状態なのであろう。また二度目の死とは。まだまだ考え続けていきたい。


散文(批評随筆小説等) 死体観=廃墟観についての考察 Copyright 朽木 裕 2006-08-22 23:11:26
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