山田せばすちゃんショウ その2
山田せばすちゃん

俺がまだ学生だったはるかゴールデン’80S、デリダとドゥルーズとフーコーを民話「三枚のおふだ」よろしく撒き散らしながら猛スピードで浅田彰は何かから逃げ続けろと宣言したくせにいつの間にか本人はちゃっかりと鬼ごっこからかくれんぼに種目を変えてしまっていたあの頃、チベットでモーツァルトがアマデウスと呼ばれて口にするにもケガラワシイ中沢某が、後にオウム真理教で全てがなかったことにされてた頃、つまりは朝日出版社の「週刊本」と岩波書店の「へるめす」の時代(笑)は既に遠くへ行ってしまったのだけれど、関西の某国立大学で左翼活動に挫折して留年した俺には既に学内には友達の一人もいなかったりして、バイト先の喫茶店で知り合った他の学校の連中と夜な夜な梅田新道を誰かの車で飛ばして阪急ナビオ前やら大阪丸ビルのマハラジャなんかでナンパにいそしんでいた頃の話だ。
「踊り疲れたディスコの帰り」(笑)に今日は何の収穫もなかったなあ、なんて深夜喫茶でアイスコーヒー啜りながら始発を待ってた俺に、某関西大学(笑)の友人Tがストローで吸い上げたコップの水を飛ばしながらこう言った。
「山田のナンパは俺らとちゃうよな、やっぱ国立はそんなんか?(笑)」
「どうちゃうねん?」
「えー、俺らムードで勝負やん?お前ちゃうもん」
「ムードやなかったらなんやっちゅうんや」
「お前、ペース(笑)」
「ペース?」
「うん、おれら一生懸命カッコイイ夜景とか見えるとことか連れてってな、カーステにキメキメの音楽とか作って、そういう『努力』でムード作りしてるやん?」
「うん」
「お前、とりあえずどこででもええねん、音楽もいらんねん、ねーちゃん笑かして、ぐっと「つかん」でそれからほろっと泣かしたりして、もう、一方的に喋り倒して、気がついたらねーちゃんベッドでパンツ脱いだあと、みたいなな・・・」
「つかんで、笑かして、笑かしてそれからほろっと泣かしてって・・・俺は藤山寛美かい(笑)」
「そんなええもんかい(笑)」
「そやけど。そやから俺とお前は友達でいられるんやで?T」
「なんでやねんな」
「俺がペースで口説く女とお前がムードで口説く女ははっきり別やん?バッティング、めったにせーへんやん?」
「そういえばそやな」
「人を見て法を説け、とお釈迦様も言うてるやろ?」
「なるほどなあ、国立はやっぱり言う事ちゃうなあ」

何のための長い長い前振りだったかというとつまりはねーちゃんの口説き方一つとってもさまざまなやり方があるという(爆)そういう話だったりするのだけれど、詩の技術にだって当然さまざまなやり方が存在する事は間違いはない。さまざまなやり方は当然、さまざまなねーちゃんやさまざまな読者に対応するべく技術として成立するのだけれど、人はどうやら我々が思っているよりも複雑かつ怪奇な実存であったりもするので、いつもは伊丹空港の滑走路の美しい夜景とコンテンポラリーなAOLのBGMにうっとりしてそのまま車で蛍池のラブホテルにお持ち帰りされているTの受け持ちのはずのねーちゃんが、たまにはお初天神横の小汚いおでんやで俺の喋りに腹を抱えて笑い転げたそのあとで、垣間見せる哀愁にちょっとほろっとなってそのまま堂山町のラブホテルで朝まで俺と語り明かしたり違うことしたりする事だって、実際の話あるのだし(そういうときには俺はすかさずTたちとは別行動を取ったのだけれど)いつもは美しい言葉、計算された韻律、高尚な主題の詩を読んでうんうんと一人うなづいているタイプの読者が、どこにどう紛れ込んだか例えばこの現代詩フォーラムなんかでたまたま間違えて開いた俺のヨゴレ丸出しの詩に突然魂を射抜かれて思わず投票ボタンをクリックしてしまうような間違いのような現実だって、きっとないわけではないであろう。問題は、魂を射抜かれるような技術、朝まで俺とホテルにいて何事かをしたくなるような気分にさせる技術、そういう技術こそが問われているのだ。
ともかく、俺がターゲットにするねーちゃんと友人Tがターゲットにするねーちゃんのタイプがいくつかの特例はあるにしろとりあえず基本的には「違う」事に関しては、誰よりも俺自身がまずもって自覚的であったのだけは誇ってもいい(いや、あんまり誇るべき事でもないけれども、むしろ馬鹿にされてしかるべきなのかもれないけれども)と俺は考える。自らのターゲットに対して自覚的であるということは自らの技術に対して自覚的であるということと、実は同じだからだ。「人を見て法を説け」といったのは本当に釈迦だったかどうかは記憶の怪しいところだけれど(笑)。

技術の始まりを伝達手段に位置づける事は、あるいは詩の可能性を一部に限定する事になるのではないか?という疑問はあって当然なのかもしれない。俺は別に人に何かを伝えたくて詩を書いているのではない、俺自身の書きたいと言う内的衝動と内的必然性にかられて俺は俺自身のために詩を書いているのだ、などとそんなこという輩は当然予想されうるし、事実そういう輩は必ずいる。
それに対しては「そういう人は勝手に詩を書いてください」と俺は言うだろう。自分自身のために書いた、誰に何かを伝えようという意志のない詩も詩であることには間違いがないからだ。ただし、その詩がウエブであろうと紙媒体であろうとどこかに発表された瞬間に、俺はその詩から何かを読み取ろうとするだろうし、読み取ってその詩にうっとりすることが出来なかった場合には「つまらん、下手くそ、勉強して来い」と罵倒する事になる。発表された瞬間に詩は作者だけのものではなく読者と共有されるものへと転位するのだ。あくまでも他者に何かが伝わる事を拒否しながら自分自身の表現欲望を解消する作品を公開するのだと言い張るのならば、それは公衆の面前で自慰行為をして見せるに等しいのだから、ええいここな変態性欲者めが、と軽蔑と罵倒をしながら、それでもそれが表現行為であるという理解の下に、俺は作品を読み解こうとする、何のことはない、俺もまたやはり変態性欲者であったのだ。この項続く(かも知れない)


散文(批評随筆小説等) 山田せばすちゃんショウ その2 Copyright 山田せばすちゃん 2003-07-29 02:00:14
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