山田せばすちゃんショウ その1
山田せばすちゃん

原口昇平が語り、佐々宝砂が月にほえる、さてさてこの思っても見ない展開に、あるいはサイト主催者たる片野氏は涙を流して喜んでいらっしゃるのではないか、などとまずは慶賀の至り。佐々宝砂に同志と呼ばれるのは実に光栄だが、名指しでトラブルメーカー(苦笑)などといわれると胸に手を当てて越し方行く末を思い、夏の夜空の輝く星に己の詩人としての未来を占ってみたくなるこの愛すべき小心者の俺こそが、投稿と批評のサイト「常盤荘」をつぶした(嘘)噂のネット投稿詩連続強姦事件の犯人こと、山田せばすちゃんです。
ちなみに某女流が俺のことを「師匠」と呼ぶのは関西の芸能人社会においては師弟関係がなくても普通のことなので(例えばフジテレビの27時間テレビで、酔っ払った振りで局部を半ば計算づくで曝して物議を醸した笑福亭釣瓶のことを、ココリコの二人が「釣瓶師匠、釣瓶師匠」と呼んではいたけれど、正確には両者の間には師弟関係はないのだ。明石屋さんまは釣瓶のことを「兄さん」と呼んではいたけれども、二人の本当の師匠はそれぞれ松之助と松鶴なので、あの二人は親戚関係みたいなもんにはなるけれども決して兄弟弟子ではありません。)読者の皆さんはあまり気にしないように。ちなみに俺はいくら「師匠」と呼ばれようともネット上で局部をさらけ出す気は今のところあまりないので、読者の皆さんは安心するように・・・どうでもいいが相変わらず前置きが長い(笑)
さて、佐々宝砂、いとう両氏の指摘によれば、原口昇平の「まず、ないものねだりをしないこと」という一文は「技術批評」ではなく、「添削批評」(そんな言葉があるのかは知らないけれど)に対して呈された苦言であるのだ、というのだけれど、実際のところどうなのだろうか?現代詩に、あるいは「現代」をとっぱらってそこに「口語自由」をつけちゃってもいいのだけれど、ともかく、ネット上、あるいはその他の場所に山とある「詩」には、果たして「添削」などという作業が可能なのだろうか?この場合、明らかに勘違いと思われる「語の誤用」、もしくはネット詩に多く見受けられる、あるいは我が盟友芳賀梨花子の得意技でもある「漢字の誤変換」を正すという作業は、無論「添削」の範疇には入りきらないことは言うまでもないけれど。
原口昇平の出した例に基づけばつまりはこういうことだ、詩において「ミロのビーナス」の両腕を勝手にくっつけちゃったり、ダビデ像のいささか包茎気味の局部をそれこそ削り取っちゃったりなどという「蛮行」は可能なのかどうなのか。
俺が自覚している限りにおいての俺の、例えば今はなき「常盤荘」でやってきたことはといえば、いや別に佐々宝砂に「強姦魔」呼ばわりされたのは濡れ衣だと言い張るつもりとて、もはや「ヨゴレ」を自称する俺としてはありはしないのだけれど、あくまでも「この詩はつまらん。どこがどうつまらんかといえば、ここがこうでここがこうだからつまらんのだ。」ということを出来るだけ作者に「わかりやすく」伝達しようと努力し続けた、それだけのことであって、いや、あるいはその論理の途上で例えば「ここはこう書けばいいのに」などと言うフレーズがあったとしても、それは決して「添削」指導などという大それたものではなくて、あくまでも「つまらない理由を具体化する過程」でしかなかったのではないかと、俺は主張したかったりするのだ、それがたとえ、相互信頼の欠如ゆえの「強姦」に等しい行為であったりしても。
その「つまらなさの具体性」を平準化しようと思ったのが、俺にとっての「詩の技術論」の端緒であった。叙情という言葉を使おうとすれば、また一から定義をやり直さなければならないのかもしれないけれども、ともかくも「感情」を「叙述」するという行為においては、原初の「感情」にはなくとも、伝達手段である「叙述」という行為には少なくとも技術が介在する余地がある。要はあるねーちゃんのことを「好きだ」という感情そのものには文句の付けようがないけれども、もしそのねーちゃんを口説きたいのならば、「いつ」「どこで」「どんなふうに」ねーちゃんに「好きだ」というかについては文句の一つだって付けてみたくなるってもんじゃないか、あんまりださい口説き方されたりしたならば。「そんなやり方じゃあ、アタイは口説かれたりはしないのよ」なんてね、なんとならば読者である俺自身が作者に口説かれている当事者であり、詩を読む俺は誰よりも実は作者に上手に口説かれて、うっとりとしたい欲望に身を焦がしていたりするからなのだけれど・・・この項続く(はず)。


散文(批評随筆小説等) 山田せばすちゃんショウ その1 Copyright 山田せばすちゃん 2003-07-29 00:02:01
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