夜の子供たち
atsuchan69





 すくすくと日向にのびはえた高層のビルや、さまざまなカタチの建物が、まるで墓石のならぶ広大な霊園を想わせてずっと何処までも遠くひろがり、マモンの森へむかうクルマのながれは絶え間なくつづく。けして誰も見ることのできない、その輝かしい富の神殿は森の奥ふかく超然とそびえたつ黄金の死のピラミッドだ。

 さわやかな秋の風をうけて、僕はアスファルトの急流をひとりバイクで駆け抜けた。
 目的は金だ! 手段はえらばない。
 僕はバイクを歩道に停め、フルフェイスのヘルメットを外した。
 歩道のすこし離れたところに浮浪者が立っていた。彼はワケのわからない言葉を宙にならべて叫んでいる。左手にあるのは底まであと僅かの酒の瓶。 
 ――ゆっくり行け! 慌てて行くんじゃねぇぞ! テメエラ、屠殺場に向かってるんだろ?
 今ここで倒れても悲しむ人すらいない野良犬のごとき生活。
 同情を寄せるにも彼はあまりにも不潔すぎるのだ。
 街の匂いが今までよりもずっと哀しく感じられた。
 それとも、それは僕のセーターに染み付いた去年のにおいだろうか?
 ダダダダダ・・・・。工事の音が響いてていた。
 わざとつめたい表情で足早にすぎて行くオフィスレディ。そして汗と精液のにおいの染みた背広服姿の男達があらわれては消えた。
 僕は腕の時計を見た。
 十時四十五分。
 約束は十一時。男はもう来ているかもしれない。胸がどきどきしている。
 待ち合わせ場所に指定した喫茶「ダントン」に向かって歩きはじめたが、なぜか止めようかとも思う。
 この店では、壁という壁にシャガールの複製の絵を掛けている。ここを選んだのは、男の会社に一番近い距離にあるから。今までに二度ほど来ているが、コーヒーの味はまあまあ、だった。
 注文を訊いてから、コーヒーを一杯毎サイフォンで淹れてくれる。マスターは定年後の理想像みたいな感じの男で口数も少ない。
 店の扉を開くとたちまち、煎った豆の香りが漂っているのを嗅いだ。
 客は席数の五割ほど。ひとりの客が大半だ。僕は観葉植物が置かれた場所の近くの席が空いているのを見た。
「いらっしゃいませ」
 マスターはこちらをちらっとだけ覗いた。ちょうど誰かのコーヒーを淹れているところだった。
 カウンターに客はなく、たぶん僕と同じくらいの年の娘が座っていた。彼女は、あわてて席を立ち、ワンテンポ遅れて、
「いらっしゃいませ」そう言うと、すこし恥ずかしそうな顔で笑みをつくった。
 僕が席に着くと、
「ご注文はいかが致しましょうか?」
 水と御絞りを運んだ。
「ブレンド。笑顔はいらない」
 僕はわざとつめたい口調で言った。
 彼女は肩を窄め、
「かしこまりました」
 やや脹れた顔をした。
 その後すぐ、背の高い男が店に入ってきた。
 彼はサングラスを掛けている。
 かなり息が荒い。
 コートも脱がずに立っている。
「君か?」
 男は僕を見つけると真直ぐにやって来た。
「・・・・」僕は一呼吸おき、「ソウダヨ。オジサン」
 裏声で言った。まるで腹話術の人形の声だ。
「・・・・」
 男はひどく顔を歪ませ、僕の真向かいに座った。「ふざけているね」
「フザケテナンカ、イナイヨ。ホンキダヨ」
「もうじきランチタイムだ。大勢、人が来る。それまでに話をつけよう」
 ふたたびウエイトレスが水と御絞りを運んだ。
「ご注文をお聞きします」
「ブレンド」
「かしこまりました」彼女は、さっと退いた。
 僕は裏声を止めなかった。
「オオゼイヒトガキタラ、オジサン、コマルノ? ナンデカナ? ボクハ、コマラナイヨ」
「・・・・」
「アノサァ、ボクハ、オコッテイルンデスヨ。ボクハ、リサノホントウノコイビトナンダゼ。コレガ、オコラズニイラレルトイウンデスカ?」
「・・・・」
 やがてウエイトレスがコーヒーを運んだ。
 男はウエイトレスが立ち去るのを見届けて、
「金は用意した。理沙ちゃんとはもう二度と逢わない」テーブルに両手をついて言った。「約束する」
「デ、イクラクレルンデスカ?」
「二十万。大金のはずだ」
「タッタ?」
「それ以上の額は無理だ」
「フン、カッコイイヨネ。オジサンのその口調、そのしぐさ」
「・・・・」
「殴ってやりたいよ」
「金では話がつかないというのか? だとしたら君は君のやりたいことをすればいい。それなら私は私で考えがある」
「フン、ソウイウヒトナンダ、アンタハ」
「――その裏声、もう二度と聞きたくないな」
 男は茶封筒をテーブルの上に置いた。
「おじさん・・・・」
「なんだ?」
「あんたは新聞記者だろう?」
「そう。だから何?」
「モラルとか社会正義とか考えたことあんのかよ」
「・・・・ある」
「だったらあんたのやったことは?」
「君に対しては悪いことをした。君の本当の目的が金でないことも知っている。しかしモラルというのは、時代と場所によって異なる。また社会正義とは、多数決であり、けして君や私の正義などではない」
「・・・・」
 ため息をつき、僕はコーヒーをすすった。「おじさんもコーヒー飲んだら?」
「いや。これ以上ここにはいたくないね。コーヒーの金は私が払っておく。えらく高いコーヒーだったよ」







「音楽掛けよう」と理沙が言い、僕は首をふった。
「理沙。俺、やっぱり大学へ行かなくてもいいからお前と結婚したいな」
「だめだよ。そんなの。カズちゃんには大事な未来があるんだから。理沙、カズちゃんの夢、壊したくないよ」
 僕は仰向けのままタバコに手をのばした。左腕が理沙の頭に敷かれている。手探りで右手の中指が紙箱に触れた。
「それって俺と一緒になりたくないって意味だろ。遠まわしの」
「ちがうよ」
「どうしてさ。そういう意味じゃないか」
 僕は左腕をぬくと彼女に背を向けた。
「理沙の気持ち、ちっとも解かってない」
「ああ。わからない」起き上がり、タバコに火をともした。
「理沙は自分勝手にカズちゃんを独り占めしようとは思わないもの」
「愛し合うって、いつもお互いが一緒にいたいって感じることだろ?」
 僕は首だけ向けた。
「感じてるよ、いつもいつも。でもカズちゃんとは育ちが違いすぎるし・・・・。年だってカズちゃん、若すぎるわ。結婚したら、きっと私のことすぐ嫌いになって後悔するから。――解からない?」
「つまりお互いがふさわしくないって言うんだろ」
「悲しいけど、現実でしょ?」
 思わず身体ごと彼女へ向き、僕は言った。
「それじゃあ僕と君はどうして今ここに居るんだよ。好きだから。愛し合っているからだろ? なのにどうして理沙は僕を信じないんだ。黙って俺についてこいよ。俺に惚れてたらそうするのが当たり前じゃないか」
「・・・・」
 理沙は起き上がり、膝を抱いた。「カズちゃん」
「はぐらかそうとしているのか?」
「ちがう」
 僕は灰皿にタバコを置き、
「・・・・」
 何かを言おうとするが言葉が出ない。すると理沙が言った、
「カズちゃん。私ずっとカズちゃんから離れないから。安心して。今はまだ早すぎるのよ。もっと大人になってから・・・・」
「寝ようぜ。疲れちゃったよ」
 タバコを揉み消し、ふたたびベッドに横たわった。
「家に電話しなくてもいいの?」
「うん。電話しない」
「・・・・」理沙はさっぱりしない様子だった。そして言った、「カズちゃん。お願いだから煮詰らないでね。カズちゃんはすぐ全速力になるのよ。もっとゆっくり行かなくちゃ、景色だって見えないし楽しくないじゃない」
「俺は大人じゃないからな」
 壁を向いて応える。
 理沙は頷き、
「カズちゃん、まだ高校生だもんね」そう言った。
「・・・・」
 僕は、ムカついている自分と、満足している自分とを同時に感じていた。それから、今日のことや、それまでの悔しい思いが壁にうかんで消えた。「――理沙。おまえ、もしかするとオジサンの方がイイのかもな」
 彼女は笑い声をあげた。
「そんなことないよ。どうしてよ?」
 僕はまた首だけを彼女の側に向けた。すこし笑いながら、
「俺とオジサンと、テクニックの面で大きな違いがあるんじゃないかな? って、ふとそう思ったんだ」
「・・・・」
 理沙の眼はまだ笑っていたが、しばらく口をつぐみ、「正直にいうけど、オジサンってしつこいのがテクニックだと勘違いしているみたい。そんなのでイッたことなんてないわ」
 本当だろうか? 理沙を抱いて果てるとき、僕はいつも思うことがある。それは彼女には、僕よりもずっと奥深いよろこびがあるだという実感・・・・。理沙の背後から、何かが高波のようにおしよせて来、すると彼女は常識や理屈が成り立たない嵐の海にあっという間にさらわれてしまうのだ。眼の前にいるのは、別の誰かとしか思えないその表情やしぐさ。狂った海に僕さえも呑まれてしまう。
「理沙にはカズちゃんしかいないよ。カズちゃんしか感じないしカズちゃんとしかエッチな気分になれないもの」
「ああ」僕はふたたび壁を向いた。僕の未来、僕の人生が彼女によって閉ざされてゆくのを感じながら・・・・。そしてこう言った。「おまえ、もういいかげんに足を洗えよ」
「えっ?」
「はじめやってた仕事からみたら、今のは全然マトモだけどさ、俺、やっぱり嫌だよ。金の為だったら、やめちゃえばいい。俺が食わしてやるよ」
「馬鹿なこと言わないで」
「馬鹿なこと?」
「そう。馬鹿なことよ」
「・・・・」僕は大きく溜息をつくと、灯りの消えた天井を見た。「本気だぞ」
 すると彼女は、僕の顔に頬をよせ、
「もう、こんな生き方しかできないのよ。私は」
 そう言った。


散文(批評随筆小説等) 夜の子供たち Copyright atsuchan69 2006-07-28 01:43:37
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