父と、海と
佐野権太
海を見たことがなかった
見え隠れする光
あれがそうだ、と無骨な指で示された海は
たいして青くなかった、が
軽トラックが、ギシギシとカーブを曲がるたび
輝きを探して、車窓にしがみついた
大きなビーチサンダルを引きずって、父の後に続いた
この方が近いのだ、と横切った畑には
肥溜めの大きな樽があって、鼻が曲がった
採り残された胡瓜みたいに
父の笑顔も、不器用に
ひん曲がっていた
滑らかなうねり、浮き輪に反射する光
大丈夫だ、と手を離されて
初めて気づいた
支えられていたのは、身体だけではなかったと
逞しい腕を求めて
大げさに泣いた
サンオイルの匂い 焼けたブルーシート
座敷で頼むより安いのだ、と持参したラーメンに
どこからか貰ってきた湯を注いだ
普段は決して食べられないカップラーメンは
涙がでるほど熱かったが
へばりついたワカメまで
きれいに平らげた
夕暮れの海岸通り 砂に埋もれたバイクの後輪
途方に暮れていた若いライダーは
国道まで後押しする父に
何度も頭を垂れた
思いついたように駆け戻った手には
しわくちゃの青い五百円札
お互い様だから、と軽く手を振り
傾いた太陽に向かって歩き出す
父の輪郭
大きくて、確かなものを
誇らしく見つめていた
海をもて 心の中に 海をもて
父の標に 吾の背中は
***
娘らが白波に駆けてゆく
日傘を捨てた君が、あわてて後を追う
足を止め、見渡せば
あの日と変わらない
海が輝く
ゆっくりと
胸を広げ
補充してゆく、
海
潮風