引き際
宮前のん
もう亡くなった女性患者さんとの会話で、今でも印象に残っている言葉がある。その人には夫がいたが、その昔、ある若い男性と愛人関係にあったそうだ。ところが、ある事がきっかけで40代半ばにして自分から20代の彼をふったのだそうだ(カッコいいなあ)。しかし、その理由を相手に全く語らなかったために、逆上した相手にストーカーされ、殺傷沙汰になったことがあったらしい。
私は彼女の主治医だったのだが、その話を聞いて好奇心が抑えられなくなり、いったい何がきっかけで若い愛人をふることになったのか、と冗談まじりに聞いてみた。すると、彼女は事も無げにこう言ったのだ。
「アタシの陰毛にね、白毛が混じってたのよ。それだけ。」
ああ私ももう若くないなあと、その時彼女は思ったのだそうだ。そして、これから老いさらばえてゆく自分の姿を曝すに忍びないと、若い愛人をふったのである。私と知り合った時、彼女は60歳を過ぎていたが、若い頃は相当美人だったに違いないという容貌の持ち主で、また機智に富み話し上手で、すばらしくモテそうなオバアチャンだった。なんともまあ彼女らしい、潔い身の引き方だと思った。
物事には引き際というのが確かにあると思う。それを逸してしまうと、醜態を曝すことになりかねない。オペラ歌手だって、しわがれた声でコンサートを続けるわけにはいかない。会社の社長さんだって、いつまでも会社にしがみついているわけにはいかない。スポーツ選手だって、試合で勝ち続けるには限度がある。もちろん引退には、勇気ある決断が必要である。そして、芸能人でも誰でも、カッコイイと思える人ほど引き際が見事である。
何事にも、いつか終わりがやってくる。
華のあるうちに身を引く事。華が落ちてからでは遅いのだ。
その引き際を見極めるタイミングが大事なんだと思う。
でも私は、自分の人生のそこかしこで、その引き際をまだ見極められないのだけれど。
(初出:蘭の会/2006年6月号 リレーコラム(1部改訂))