小説家の才能について考える。
腰抜け若鶏

この世界には才能と呼ばれるものが存在する。
その行為に適した体、または脳の作りが才能の正体である。

例えばプロ野球選手の場合。
常人なら飛んできたボールを脳で分析し、
次の行動を脳で判断してから指令を体に伝えバットを振る。
しかしプロ野球選手は脳で分析すると、
次の瞬間にはバットを振っている。
脳で判断するという行動を省略して、
日頃の練習していた動作を条件反射でとるらしい。

小説という娯楽はごく一部の、
限られた才能を持つ人のためだけのものだった。

「透き通るような瑠璃色の小川が」と書かれていれば、
本当に小川のせせらぎが聞こえてしまうような幻覚症状。
小説とは一種の精神病にかかった人間達が作り出した、
同じ病気の人間のための娯楽であった。
そんな人間を小説家と呼んだ。

そんな特別な力を持った小説家に憧れた大多数の人間が小説を読むふりをする。
ちょうどプロ野球選手に憧れて、バッティング練習をするように。

小説家はその場にいながら世界中を旅できた。
歴史の目撃者になり、未知の世界を冒険し、
まったく違う人間になることもできた。

現代ではそんな小説家の喜びを誰でも簡単に享受できるように様々なツールが発達した。
よりリアルな映像技術に、より愛らしいアニメーション、より迫力のあるコンピューターグラフィク。
たかがドラマだなんて、たかが漫画だなんて、たかがゲームだなんて舐めちゃいけない。味はほとんど同じだ。
だが、小説家は文字だけで映像も音もはっきりと知覚できるのだ。
しかもその可能性は無限大。技術の限界は存在しない。

言っておくが私は小説家ではない。
私が小説家の喜びを享受するには多くのツールがいる。
しかし、世界には小説家と呼ばれる脳の作りをした人間がいる。
そして、誰にでも簡単に小説家になれるツールが私たちの脳を小説家から遠ざけている。
それだけ言いたかった。


散文(批評随筆小説等) 小説家の才能について考える。 Copyright 腰抜け若鶏 2006-06-27 13:34:01
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