県立ロダン美術館
右肩良久
春光や「カレーの市民」の尻の張り
春光や決死の像に漲りぬ
彫像の裳裾の奥へ春光る
春光の中や塑像の蹲る
緩みなく「考へる人」春早し
春立ちぬ考へること生きること
地獄門この世の春に照り映ゆる
あなたは時々手がつけられない人になる。温厚で常識的なあなたの殻に亀裂が入って、暖かい血が噴き出し、裂け目から赤い肉が覗く。僕にはとうてい理解できない苦しみにのたうち回るのだ。「私が考えるべきことを先に誰かが考えてしまっている。だから私には考えることが何もなくなってしまった。」どうしようどうしようとうろたえて、ふいに泣く。上目遣いで僕にすがりつく。もちろん、僕にどうしようという答えがあるはずがない。あなたから嵐が去るのを待つだけだ。すべて終わった後で、僕は一人になってあなたの問いの答えを探す。いつもそうだ。考えるべきことが何もなくなったら、あなたは、僕は、どうすればいい?
美術館でロダンの彫刻を見たときも、僕の頭からこの疑問は去っていなかった。「考える人」は何を考えている?考えるべきことはまだ残されているのか?彼から答えはなかったが、彼の考えるフォルムだけは、僕の中で微塵も揺るがなかった。彫像には考えることなど最初からなにもないことに、僕が思い当たった後もだ。そうだ、考えるということはフォルムだ。
早春の風は大きなガラス窓の外を吹き、竹林の揺れる庭から午後の光が暖かく差し込んでいた。あなたを失って破滅しようとしている僕の人生の丁度崖っぷちに、ふっとパラダイスの幻影が兆したようにも思えた。
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