アモルファス、ピンクサーモン
カンチェルスキス




    
 犬を散歩させてるやつをじっくり観察することはない。あったとしても、そんなにはない。深夜二時、居酒屋の前でゲロを吐いてる女を見るくらいそんなにあることじゃなかった。しかし、ゲロを我慢する女というのは案外見るものだ。地下鉄やファミリーレストランの入り口で煙草の自動販売機の前で。
 おれの目の前に立ってるやつは、男だった。ゲロを我慢してる女でもない。犬を連れた肥満体型の男だった。
「ハウ 、メニー 、ピーポォ?」
 とそいつは言った。句読点をしっかり打つやり方で発音した。ピーグル犬を連れてた。青と白の半袖ボーダーシャツを着てた。ズボンはラウンジ調の黒だった。ラウンジ調の黒とはどんな色だ。冬だった。半袖の袖口をねじって巻いていた。昨日、小雪がぱらついたばかりだった。
 おれはとりあえず、答えた。
「ざっと見て、8人だ」
 おれは一人だった。何度も確かめたことだ。
「こんばんは」
 男は言った。
 夜だった。
 おれは朝だったらいいのにと少し思った。
「こんばんは」
 おれは答えた。8人分。正解に言うと、おれを含めた9人分。
「帽棚mだl;Kdカンダlsmぁあsまmdぁmだぁms;?」
 男は言った。
「ああ」
 おれは答えた。
「20グラムだ。好みによって、もう5グラム足してもよい。でも、あまり無理するな。女が無意味に乳を揉みしだきだす」
「へヴィメタ?」
 ピーグル犬に男は訊いた。全力で訊いた。ピーグル犬は全力で答えた。「そうでもない」
「てっきりそうだと思ったんだけど」と答えたのはおれ。脱力気味に。
 電車が通り過ぎた。普通列車だった。生ゴミをそこそこ載せていた。朝の快速はぎっしり生ゴミを満載した。ネクタイはほとんど臭い靴下と言ってよかった。
「ぼくもそう思ってたんだ」と男。「こいつがへヴィメタじゃないことに気づいたのは、いまがはじめて」
「無理もないさ。黄色の信号はいずれ点滅することになってる。逆らえないよ。法事の行きしなにスクーター乗った坊主が麻木久仁子のことをふと考えたがために壁に激突して即死するのと同じ理屈だよ」
 おれは言った。耳掻きが耳の穴より太かったら、おそらくコトだ。と同時に、流したクソがもう一度まわりまわって自宅の水洗便所に戻ってきたら、これもまたコトだ。「よぉ、ひさしぶり!」なんて言ってられない。
「ぼくのパーマ似合ってる?」
 男はおれに訊いた。おれが答えようとする前に、ピーグル犬が答えてしまった。夏休みの宿題に追い込まれたこどもみたいに、ヤケッパチ精神で。
「ヴィンセント・ギャロ!」
「あいつ、パーマだったけ?」
 おれはつぶやいた。どっかの国の映画監督でもあり、歌手でもあり、写真家でもあり、
 芸術家でもあり、オナニストであるかどうかはわからんが、世界中の男性という男性は
 オナニストである、と断言しても、拍手喝采もなければ猛反対にあうわけでもないから、おれは断言する。すべての男性は、オナニストである。セックスとオナニーを別物だと考えてる。女で言う、甘いものは別腹精神と似ている。
「ぼくは、パーマ。巻いてる、すごく」
 男は答えた。
「内巻き?外巻き?」とおれ。「暗闇でよく見えない」
「平和な感じ」
「ビター、じゃあ、眠ってるときは外巻きなんだな」
「ヴィンセント・ギャロ!」とピーグル犬。
「女の子に夢中になってると、内巻き」とパーマ男。
「着てるボーダーが縦じまになっちまうってな」とおれ。「日本史の教科書に載ってる哀しい顔したフランシスコザビエルもきっとそうだったんだろうよ」
「サンフランシスコ!」とビーグル犬。30000試合連続出場的に。
 男が何か言おうとした。
「四フランシスコと言い換えるのはよせ!」とおれは言った。「そいつはきっと苦い経験になる」
「いいんだよ、ぼくは。どうせ酢コンブオンリーの暮らしがこれから先も続くんだよ。金属バットで干したふとんを一心不乱に叩いても、別にいいだろ?ぼくの巨乳はちっちゃくなんかなりゃしない。四フランシスコ」
 男は涙目になってた。そこに夏から蝉とカブトムシとクワガタが集った。樹液か、なんかに近かったんだろうと思う。
「前が見えない。まるで夜にサングラスをかけてるみたいだ」
「タモリがそうだよ」とおれは言った。「彼は、昼間あんなにはしゃいでるが、実は、危険な男だよ」
「危険も、慣れてくれば安全だよ」と男。
「そうかもしれない、ただ安全という意識が無意識にまで到達する頃には、逆に危険そのものになってるものだ」
 おれは言った。腕時計を見た。腕時計はしない主義だ。たぶん、夜の時間帯のいずれかの時間帯だった。
 男は目の前というより、目そのものに集う蝉やカブトムシやクワガタを両手で追い払った。そのとき、タラバ蟹が飛んでゆくのをおれは見た。それがいたのだ。暗闇は何でも隠してしまうものだ。
「やっと、よく見えるようになった。ん?」
 タラバ蟹の足が一本男の内巻きパーマからぶら下がってた。ちょうど爪のところが右目のところにきてる。
「あんた、ヒンズー教?」おれは訊いた。
「いや、ぼくは違う。二世帯住宅だ」
「そうか」とおれ。「おれは、タイムリーツーベースだ、むしろ」
「簡単な自己紹介だね」
「これからずっとこんなことを続けなきゃならん」おれは言った。「ずっと自己紹介し続けて、続けまくって、結局、何者だったか認識されることも理解されることもなく、消えていっちまう。人々の記憶からも、この世からも」
「トルネード旋風!」
 とビーグル犬。鶏でも鰆でもYAWARAちゃんでも二階堂進でもドンタコスでも21世紀のパイオニアでもナノテクノロジーでも昼休憩時のOLでもしみったれたラバーソウルでも絶対釣りを渡さない地下鉄の券売機でも何でもいい、阪神戦はいつも満員だろ、ピーグル犬だ。
「おっぱい、その歴史と哀愁」
 タラバ蟹の足を振り払って、男はつぶやいた。
「必然性生理不順みたいな気分だよ、おれは」
 温泉卵が食べたいとおれは強烈に思った。
「マイク真木とギターの調べ」と男は言うのをためらった。
「言えよ」とおれは言った。「すっきりさせちまえ」
「今晩のグラタンは、マイク真木と、ギターの調べる、ヘンドリクス」
 男のねじり巻いた半袖の袖口が耐え切れなくなりつつあった。
「急いで帰るたびに、部屋が遠くのよ」おれは言った。
 おれが何かを発言するのは、生まれてから何度目だ?まったくうんざりするものがあった。この間、よくなったことなど何一つない。悪くなったことなら簡単に挙げられる。まず、キッチンの清潔さだ。まるで赤ちゃんのケツみたいにつるつるしてる。それからどうしてもカップヌードルを6分以上待ってしまうことだ。食べる頃にはゆるゆるの麺になってる。3分以内できっちり待つ、ということができなかった。
「ヘアヌード写真集で一儲けすりゃいいじゃん」
 男は言う。
「誰の?」とおれ。
「あの人の」
 おれは考えた。地球上に存在するすべての生命体、ということを念頭に置いた。
「あの人か。そう言えばな」
「そう」
「あの人がいたか」
「そう」
「あの人でもいいんじゃないのか?」
「もちろん、あの人でも」
「あの人は?」
「うん」
「あ」
「それは、だめ」
「そうか。あの人はだめか」
「たぶん、ね」
「あの人」
「ん?」
「う」
「な」
「そうかあ」
 おれは何となく全部言い終えた感がした。すべての発言を撤回しても構わなかった。
 少なくとも今後日本赤十字の献血を受けることはないだろう。おれはキムタクとは違う。
「Could you tell me the way to the library?」
 ピーグル犬が言った。
ピーグル犬の発音は完璧だった。おれは答えた。
「パードゥン?」
 ピーグル犬が黙ったまま死んでしまったとしても、おれはビールで体内を潤す。肥満体型の男は、ピーグル犬の引き綱を引き寄せた。男のシャツはボーダー柄だ。囚人服によく似てる。男は犬を連れてる。ピーグル犬だ、秋田犬の血が半分入ったピーグル犬。囚人だった、男も、おれも。囚人服を着てる囚人なのが、そいつ。おれは囚人服を着てない囚人だった。
 おれは言う、「北ってどっちだ?」
「アモルファス」男はボーダー柄を手で縦じまにならしながら答える。「ピンクサーモン」
 





散文(批評随筆小説等) アモルファス、ピンクサーモン Copyright カンチェルスキス 2004-02-17 16:05:37
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