加藤泰清





他の人の作品を久し振りに読むと、
(「ああ、なぜこんなものがこれほどまでに高ポイントを勝ち取っているのだろうか」
と思うこともたまにあるりますが、)
「ああ、やはり、ああ、なんというか、ああ、すごいなあ」と、
自分の文章の稚拙さ、自分の頭の弱さ、青さ、そして情けなさを、
認めることを、しみじみと感じます。
恥ずかしくなります。
穴があったらいれたくなります。




まあそれでも、
”オレは少年だ! だからなにやっても仕方ないんだ・・・多めに見てくれ。”
と三回唱えると、不思議とどうでもよくなります。
世界中が僕を許してくれるような、そんな衝動に駆られるのです。
恥ずかしい僕、自身を一度殺すのです。
するとまたわざと稚拙で頭の弱い文章を書きたくなります。
でもそれを書き残した後、その稚拙さ頭の弱さがわざとではなく、
本気と書いてマジだと気づいたとき、
また恥ずかしくなります。
バックからいれたくなります。




(僕は自分の文章の稚拙さ頭の弱さ青さ情けなさ自体は気にしていません。
ただ、真面目に書いた作品がそうであったり、
わざとそう書いた文章のウケが悪かったりすると、
首を吊りたくなります。
これは本気と書いてマジと読みます。)




例えば自転車に乗ってるとき、
僕は常に何かを考えています。
その時考えてることは、さながら大学教授の論文のようで、
現代詩フォーラムに投稿すれば必ず30ポイント以上はいく!
と自負できるものばかりです。




この時の論文を投稿すれば、
僕の現代詩フォーラムでの人気は、文学界のSMAPといわれるほどになったと思います。
ネクラなぼうやといわれることもなかったと思います。
しかしそこには一つの問題がありました。
僕は自転車から降りると、その時考えていた内容が消えてしまうのです。




(内容を忘れてしまっているのに、なぜかすごい出来だ、
と僕は自負できているのです。
それは、とても素晴らしい事で、生命の神秘であると思います。
脳は自分にとって有利な事を優先して覚える造りになっているのです。)




詩を考える時はデスクトップに向かってると、
(それがたとえ駄作であろうと)ぽんぽんと浮かんできます。
しかし自転車上で考えた論文は、
いくらデスクトップの前で頭を捻っても思いだせない。
仕方なくこうゆうことを書いていたかな、とちょびちょび文字を綴っていくと、
とても面白い文章が出てくるのです。これは自嘲です。




たまにいつもよりも多目に思い出して綴っていくことも出来る時があるのですが、
十数行書き終わったところで、
「これはちがう・・・!」
と眉間にシワを寄せ、全て選択→削除をしてしまいます。
僕はその時、強烈な虚脱感と喪失感、そして劣等感により、
涙がこぼれそうになります。
アイアムサムを観た時の涙とは違う、腹の中がどす黒い感じの涙です。




また、僕は長文を書く(打つ)事を得意としません。
得意としないというのは、僕はデスクトップに一から長い文章を書いている(打っている)と、
途中で飽きてしまうのです。
適当になってしまいます。
残念です。長文自体はとても好きなのに、です。
これが文章が稚拙になる最大の原因だと推測できます。
今現在もその(僕にしかわからない)飽きてきた匂い、というものが、
こめかみ付近に降りてきています。
降りてくるという事は神様なのでしょうか。




しかしある一点を越えると、
その匂いは音もなく消えていきます。
そういう時、猛烈に文章がにとうりゅう→みだれうちされていきます(FF5)。
なにかが降りてきたかのように、です。
これもまた神様かもしれませんが、文章はそうでもない場合が多いのです。




こういうこともあります。
僕は大抵夜に文章を書き始めます。
僕は穀潰し少年なので、夜中になると親が切れて、早く寝ろと叫んできます。
(余談ですが、よく今の若いヤツはと言われますが、今の中年も切れやすいと思います。)
そのとき書き終わっていない文章は、メモ帳などに保存しておくのですが、
後日、僕はその存在を忘れていることが多々あります。
これも文章の稚拙さの遠因かもしれません。




唐突ですが、僕はこの前万引きをしてしまいました。
(これはノンフィクションととらえていただいて構いません。)
(今ここに謝罪します。万○○店さん、ごめんなさい。)
その時僕はロックマン5を万引きしようと思っていたわけですが、
その理由は、スリルを求めて、などというちゃっちい理由ではなく、
ロックマン5やりたいなあ、でも1000円越すのはちょっと手が届かないなあ、
そうだ、万引きしてしまうか、という頭の弱い理由でした。




その時、僕の頭はすこぶる回転していました。
人一倍大きい頭は、
”オレはこの経験を活かして、エッセイを書くんだ。その為に万引きをするんだ!”
という理由を第一の理由として脳に擦りこませてしまいました。
記憶の書き換えというものを初めて実感した日だったと思います。
(体験だけは幾度もしていただろうと思います。)




だがしかし、僕は結局そのことをネタに文章を書きませんでした。
正確にいうと忘れてしまったのです。
そう、自転車に乗ってそのことについてあらゆる考えをめぐらせていたからです。
家に着くとすっかり記録は抹消され、万引きをしたという事実のみが鞄に残っていました。




僕はその後、5回程万引きを繰り返してしまいました。
万引きはクセになるという事を身を持って実証しました。
それ以降も万引きする度にエッセイを書こうと思いたちながら、
何も書き残せませんでした。
僕は何故万引きなんてしてしまったのか、と自殺しそうにもなりました。
しかし、自殺するほど思いつめているなら、自分はその辺のバカとは違う、大丈夫だ、
と僕は自己解釈して、難なく事なきを得ました。
僕は変でしょうか。全く更生していないのでしょうか。
自己解釈したくなります。
(罪滅ぼしというわけでもありませんが、今はその店でいろいろとお金を使っています。)




今までに何度か文章内に登場していますが、
僕はよく死にたくなります。
しかし死ぬ事はありません。
ためらい傷ひとつない手首になぜかためらい傷のようが傷がついていただけで
「ぎゃあああああああ、ためらいきずううううううう」と叫んだことがあります。




それよりも殺されそうになったことはあります。
誰かというと、父親にです。
肉体的には、寒空の中に放り出されたり、
木箱やスイカを投げつけられ、危うく頭に当りそうになったことなどです。
精神的には、よく大声をだすので、騒音おばさんの被害者の方のような症状になったり、
PS2を床に叩き付けられたりなどがあります。




しかし僕は死なないと思います。
死ぬ勇気がありません。
偶然に身を任せる度胸がありません。
まだやりたいことがあります。
しかしそれでも僕は死にたがるのです。
これは生命の神秘だと思います。
どちらがどのようにしてどんな嘘をついたのか、脳が判断できていないのです。




僕は今、長文を書いています。
きっと神様が降りてきたのだと思います。見えてこないことが残念ですが。
さて、そろそろ寝ろと言われてきました。
今、どんどんいろいろ書きたくなっては来たのですが、
メモ帳に保存すると、その存在を忘れてしまう、と僕の脳が仰っているので、
この辺りでこの作品を締めたいと思います。
ここまでお付き合いくださり本当にありがとうございました。











散文(批評随筆小説等)Copyright 加藤泰清 2006-05-05 22:57:01
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