消費と熟練工(加筆訂正)
佐々宝砂

今夜このサイトをみてちょっと気になってた文章を読もうとしたら、削除されていた。私の投稿のあと削除されたっぽいので、もしかしたら私のせいだったらどうしようと今さら思い悩みつつ、加筆訂正させていただきます。別に誰か特定のひとの詩を「なんだこのクソくだんねー詩」と思ったわけではないのです。すみません。m(_ _)m

小説やマンガを読むフツーの読者は、たいへんにわがままなものである。一冊面白い本があると、はやく次を出せと作者に催促する。そのくせ、新作が、前の作品とイメージがちがっていたり、前の作品より地味だったり、つまらなかったりすると、今度はブーイングないし黙殺だ。「前のよりインパクトに欠けると思うけど、がんばってください、次に期待しています」なぞと言ってくれるのは、よほどのファンだけである(しかし作者にとって熱心なファンほど恐ろしいモノはない、嘘だと思う人はスティーブン・キングの『ミザリー』を読むべし)。なにも本に限らずゲームや映画でもよい、クソゲーをつかめば製作元に文句のひとつも言いたくなるし、クソ映画を見てしまったら監督にブーたれたくもなる。ゲーム好き映画好きであればなおのこと、なんかひとこと言いたくなるはず。それがフツーの消費者の態度というものであり、フツーの消費者は、当たり前のようにエゴ丸出しなのだ。

しかるに詩の場合はどうか。そもそも詩にフツーの読者=フツーの消費者はいるのだろうか。もちろん少ないながらもいるからこそ、本屋では少ないながらも詩集が売られており、図書館には少ないながらも詩集が並んでいる。極端に本好きで本を大量消費するとはいえフツーの市井の読者だった私自身、少ないながらも詩集を読んでいた(念のため書いておくが、それは、私が詩を書き出す以前の話である。私は詩の作者である前に読者であった)。フツーの消費者として読んでいたわけだから、「なんだこのクソくだんねー詩」と思うこともあったし、「うわーすげー尊敬」と思うこともあったし、気分次第では20ページ読んだだけで「まだ一人も死なない、つまらない」と思うことすらあった。しかし、内心で思うだけで、表にはあまり出さなかった。まわりに詩の読者がいない状況では、詩集の感想なぞおしゃべりしていも意味がないからであり、また私は、作者に直接ファンレターを出すようなタイプではなかったからである。別にエゴを隠していたわけではない。単にめんどくさかったのだ(笑)。めんどくさい場合には黙っている、というのは、これまたフツーの消費者の特徴である。

今はネットがあるので、ある意味ではかなりめんどくささが軽減される。「なんだこのクソくだんねー詩」と思ったら、そういう物言いが許される掲示板にかきこめばよい。それを読んで怒るヤツもいるだろうが、それはそれだけのことだ。もし揉めたら自己責任で解決すればよい。しかし私は極度のめんどくさがりなので、揉めるのもめんどくさい。揉めるとわかってて何か書くなんて、そんな面倒なことは死んでもやりたくねー。揉めたら負ける。というか負けることにしている。負ければ揉めごとは終わる。そもそも揉めごとなんてやらないに限る。だから私は、「なんだこのクソくだんねー詩」という感想を腹に飲み込む。それがフツーの消費者の態度かとゆーと、なんかそうじゃない気がしないでもないが、めんどくさいから黙っているわけなので、やっぱりけっこうフツーの態度なのかもしれない。


詩はすばらしい。そう思ってるから、私は詩を読んだり書いたりする。でも詩の全部がすごいわけではない。ゴミみたいなものだって中にはある。有名詩人にだって駄作はある。すごいすごいと言われる詩だって、好みにあわなきゃ「つまらん」と思う。どんな分野だって、どんなヒトだって、そういうものだ。しかし、私は、ひとつひとつの詩が、作者にとって、またその詩を大好きな読者にとって、特別なもの、大切なものだということを、それなりに理解している。詩というものは、他のエンターテイナメント作品と違い、作者の魂と骨がらみで結びついていることが多い。ひとつの詩を否定することは、ひとりの作者の否定につながりかねない。だからこそ、揉めごとがキライだという個人的理由がなかったとしても、私は「なんだこのクソくだんねー詩」という感想を口にだすことはない(全く口に出してないとは言わないが、なるべく出さないようにしている)。私は、あるひとりの人間を「くだんねー」「つまんねー」と断罪できる人間ではない。そういうことはしたくない。これが、小説読者としてはきわめてわがままな消費者である私が、詩の読者としてはわがままな消費者になれないひとつの理由だ。

それでも、金を払って買った詩集になら、私にも文句が言える。私は購買者だ。読者だ。金払った読者はカミサマだ。えらいのだ。でも、実を言えば、現在私が読んでる詩の大半は、金で売られているものではない。それらは、ほぼ無料のものとして(実際には完璧に無料なわけではないが、ほぼ無料のものとして)提供される。ネットのうえの詩。知人が送ってくる同人誌や詩集。原稿料がわりに送られてきた詩の雑誌。そうした(ほぼ)無料の詩に対し、私はどうしてもわがままな消費者にはなれない。私はきわめてビンボーなもので、タダでもらったものには文句が言えぬたちなのだ。似合わない洋服をもらったって、大嫌いな食べ物をもらったって、せっかくくれたんだし、ほら、ちょっとくらい気に入らなくても、いいじゃない?と自分で自分をごまかす。しかし、そういうの、「消費」っていうのかねえ?

もしかしたら、真に消費されているのは詩ではなく、サーバースペースと紙と手間暇じゃないのか。私を含め、同人誌や自費出版の詩集をつくる詩人は、もしかしたら、消費されるものをつくっているのではなく、自らが消費者(紙や印刷サービスやインターネットサービスの消費者)になっているだけではないのか? 

しかし念のため言っておけば、もちろん、どんな立派なすごい詩であろうとも、紙や印刷サービスやインターネットサービスを消費したうえでなければ流通しない。今の世の中、詩人だって芸術家だって消費者なのである。お互いどうしで生産し消費し続けているコミケのようなものだって、私は好きだし、そういった場所には、通常の生産→消費のサイクルとはまた違うサイクルが存在していると信じている。そうした場所にこそ、未来はあるのかもしれないと思う。

この小論(論とゆーほどのもんでねーが)に、結論はない。しかし蛇足はありまして、以下、蛇足。

私は、以前からものをつくるひとにあこがれている。芸術家にあこがれているのではない。私がなりたいのは職人だ。民芸品を作る職人ではない。私がいまあこがれているのは、大量消費されてゆく大量生産品を手慣れた手つきで器用に確実に製作してゆく、工場の職人だ。一流の熟練工だ。TVで中国あたりの生産現場(特に食玩をつくってるよーな現場)をみると、工員たちの手つきの素早さうつくしさに、私は真剣にうっとりしてしまう。彼等のような熟練の業はないが現実の私も工員で、あちこちの工場を渡り歩いている(単なる派遣社員とも言う)。仕事はきついし夜勤は多いしそのくせ給料は安い。でも私は工場の仕事が好きだ。できればなにか技術を身に付けて、熟練工になりたい。私は大量消費社会に住む普通の消費者だが、同時に、消費されるものを生産する人間でありたい、ただ消費するだけの人間ではいたくない。

そしてそれは、詩においても。詩人を含む芸術家は、詩を含む芸術をつくればよい。芸術は非常に立派な、尊敬に値する仕事だ。芸術作品は、芸術家の魂としっかり結びついていることが多いだろうから、簡単に消費されて消えるような儚いものではない方がいい。でも私は、必要とされるもの、需要のあるもの、消費されてゆくものをつくりたい。芸術作品のレプリカとも言える食玩のような詩を、手慣れた手つきで素早く確実に持続的に大量生産できる詩の職人……詩の熟練工になりたい。私は本当にそういうものにあこがれる。心の底からあこがれる。しかし、現時点の私は、詩の世界においても、現実の生産現場においても、まだまだ経験の浅い未熟な工員に過ぎないのだ。残念なことに。

と、シメて終わりにすりゃかっこいいのだが、もひとつ付け加えておけば、私が考えるような意味での「消費される詩」は、おそらく、決して賞賛されるようなものではない。まず絶対教科書には載らない。ものすごく大きくまかり間違わないとH氏賞も中也賞もとらない。読んだひとが「共感しました」と言ってくれることもない。「おもしろかったー」「こわかったー」「きしょくわりー」「へんー」と言われてオシマイで、あとになんにも残らないよーな儚い詩、二流マンガ家のマンガのような詩、消費されて忘れ去られてゆくような詩を、今の私は書きたいのだ。

(早朝勤務の翌日が夜勤の予定なので、意地でも起きていないといけない夜のつれづれに。しかし、もう朝なので寝ま〜す)


散文(批評随筆小説等) 消費と熟練工(加筆訂正) Copyright 佐々宝砂 2003-07-23 03:51:49
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