そして海は濁っていった
岡部淳太郎

                 そして、
海は濁っていった。青黒く、あるいは黄色く、
濁ることで海はひとつの予兆を示した。水平
線までの正確な距離をはかろうと、漁師たち
は考えをめぐらせ、砂浜で睦み合うだけの恋
人たちは、何も知らずに浅い夢を見ていた。

                 そして、
潮は高いままで止まってしまった。水は堤防
ぎりぎりまで物事を隠し、秘めた殺意を暖め
ていた者は、その思いを深く潜らせたまま、
明日の殺戮を思ってふるえた。魚の体のよう
に平板な意志のままで、人びとは網の結び目
のひとつひとつを、丁寧にほどいていった。

                 そして、
貝は耳の代わりに何事かを伝える術を忘れた。
やがて訪れる大きな波の高まり。そのために
月は無言で歌い、風は張られた帆を強く愛撫
した。海辺に住む人びとは目を瞑って祈った。
この夜の海に、ますます濁る海に祈ることで、
自らのいのちを必死に忘れようとしていた。

                 そして、
海の濁りは夜に溶けこむほどにまで深まって
いった。青黒い、あるいは黄色い海。どこか
遠くの海原で一艘の船が溺れても、誰もその
事実を知ることはなかった。伝えることのか
なわぬ遠泳と脆い恐怖。そして、それからの
ことは誰にもわからなかった。ただ、海の濁
りが、人の頭脳の中のそれと同じようである
と、夢の潜水夫が昏くつぶやくだけであった。



(二〇〇六年二月)


自由詩 そして海は濁っていった Copyright 岡部淳太郎 2006-04-24 22:11:11
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