われわれは技術でできている
安部行人
われわれのうちの多くは、自分の脚でいろいろなことを行う。
走り、跳び、ボールを蹴り、時には自分の頭より高く脚を振りあげたりもする。
だがこれらの動作はまず、「歩く」ということが出来なければどうにもならない。
2本の脚で歩くということは、多くの人がごく当たり前に行っている。
しかし、「歩く」というのは、学習しなければ行えない「技術」である。われわれはある日突然歩けるようにはならない。まず手足の全部を使って這いまわり、それからどうにか直立し、何度も転び、バランスを取る事を覚え、そうしてようやく歩けるようになるのだ。
歩けるようになると、歩くということそのものはどんどん意識されなくなる。歩くことが、歩けることが当たり前になるからだ。
だが、「歩く」という日常動作の中にある技術を洗練することによって、歩きを基本にする動作の質が変わってしまうのである。
優れたスポーツ選手やダンサー、武道家、伝統芸能家の「歩き」を見るとそれがわかる。
1歩を踏み出す、外見的にはただそれだけの動作に、体重をどうかけるか、つま先から下ろすか踵から下ろすか(あるいは足裏全部を同時に下ろすか)、足先の角度はどうか、等等の追求と試行錯誤が込められている。
彼らの「歩き」はわれわれの「歩き」と同じものに見えるが、それは「歩く」ということの技術を凝縮し、無駄を削ぎ落とした結果であり、レベルは桁違いに高いのである。
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ふりかえって、われわれは言葉をどう扱っているか。
歩くことと同様に、言葉もまた学習によって身につく「技術」である。そしてまた、歩くことと同様に、さほど意識もせずに言葉を使って昼飯を注文したり、苦情を言ってみたり、愛をささやいたりする。
優れた詩人は、日常に埋没し、それが技術であることを忘れてしまうような言葉に目を向ける。アスリートが自分の一動作を見つめ直すように、詩人は自分の言葉のひとつひとつの意味を問い直す。
言葉のない行間と空白の意味をも問い直す。
そこにはまぎれもない、言葉についての技術がある。
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このように言うと、「技術があればいいというものではない」という意見が上がるだろう。
それはその通りである。技術があればいいというものではない。
だが勘違いしてはいけない――技術がないのはもっと悪いのだ。
<シンプルで凄いものは、技術を捨てたからそうなったのではなく、技術を凝縮し尽くした結果そうなったのである。>