コメディに関する考察
角田寿星
(その1)
思い出すのは高階杞一さんの『早く家へ帰りたい』。
旅から帰ってきたら
こどもが死んでいた
で始まる詩だ。『キリンの洗濯』やら「タンスとダンスを」などの飄々とした詩で彼の詩に親しんできたぼくは、物凄いナンセンスをこの一節に感じとった。
彼のこどもの死がほんとなのかフィクションなのか、すぐにはわからなかったんだ。
この一節の後に続く詩文は哀しいくらいにマジで、どうやらこどもの死はほんとらしいことがわかるんだけど、ぼくにはどうしても、いきなり2行めでこどもが死んじゃう、その事実が受け入れられなかった。
後に、高階さんの子の雄介くんは難病で幾度も入院したり手術をしたこと、束の間の成長を喜んだりしたこと、わずか三歳の生涯だったことなどを知った。
「ごめんなあ、高階さん…」「雄介くん、ごめんなあ…」ぼくはいつまでも言ってた。
(その2)
○○さん、酒のんで酔っぱらって死んじゃった。
これが故・荒井注のギャグだったことを知る人は少ない。
中島らもさん、あなたの死を哀惜する人はほんとに多い。
ぼくは人の死に何度も立ち合ったし、死をギャグにすることなんか出来はしない。
それでもあなたの死を報じるニュースを聴いた時、浮かんだことばはこれだったんだ。
らもさん、酒のんで酔っぱらって死んじゃった。
(その3)
詩を思いついた。わりといいコメディというかパロディというか、いいセンいきそうな予感があった。
導入部はこうだ。
仕事から疲れて帰ってきたら、家が米軍に誤爆されてた。こどもたちは真っ黒になってススみたいにゆらゆら揺れて「パパー」と出迎えた…。
書けなかった。どうしても書けなかった。
たとえフィクションであっても、たいせつな家族をコワすような描写はひとことたりとも表せなかった。
詩人の想像力には、思わぬ、しかもとてつもない足枷が備えられているんじゃなかろか、と思った瞬間。
(その4)
古いマンガを読んでいた。
石森章太郎の『となりのたまげ太くん』の冒頭に、小松左京が文を寄せていた。「石森氏のマンガは正統的なスラップスティック・コメディである」という内容。
興味深いので要約してみようっと(手許にないので、うろ覚え)。
日本では今一つ正統派コメディが育たない。人を人とも思わないような、キートンやマルクス兄弟に代表されるようなスラップスティックが、日本ではいつの間にか角がとれてしまって、やんわり泣き笑いの人情劇になってしまうことしばしばである。
小松さんはこの原因を「日本では芸能を『目出度さ』と関連づけることが多いからではなかろうか」と分析していた。
海の向こうでエスプリかましてるヤローどもは、そしたら芸能をどんな位置付けで観てるのかな、と少し素朴な疑問。
余談。小松さんは石森氏をほぼ唯一のコメディ漫画家と書いちゃっていたけど、多分意識的に日本最大のスラップスティック・コメディを失念していたと思う。
そう、『天才バカボン』。
(その5)
『天才バカボン』ではゲストバカなんてのがいて、まあなんともハチャメチャやらかしてた。
生きたまま手足をチョン切ったり、まともな人がタリラリラ〜ンになったり、二目と見られないほどのひどい顔になったりなんかは、日常茶飯事だ。
昔でも落語では「馬鹿の与太郎」なんてのがいまして、チャンチキチン、ステテンテン、の大活躍だ。
現代のコメディで、知的障害者、身体障害者、精神異常者の居場所はあるんだろうか。