批ギ ティラノサウルス『放牧』
黒川排除 (oldsoup)

ティラノサウルス『放牧』
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 これは嘘だ。

 ティラノサウルスという詩人が放牧という詩を書いている、という違和感が嘘だというわけではないが。少なくとも信じうる限りの情報においてこれは嘘だ。この詩はアメリカでこっちは日本だから嘘だ。嘘だと言っているがこれは別にむやみに嘘だと言っているわけではない、とわざわざ書かなければならないほど、嘘が蔓延している。この嘘を解明しなければならない。しかしそういう嘘をついたあとで。

 その嘘を牛と置き換えればちょうど、この詩の全体像が正しい形をもってあらわれてくるはずだ。これは嘘ではないけれど。嘘という言葉を何度か使っているうちに嘘という言葉が一体なんであったかさっぱりわからなくなってくるように牛という言葉を用いようとしてはいるものの、実際には何度か牧場を駆け回った後に再び牛の元へ戻っているにすぎない。普段の文章の中に牛という言葉が入るでもなく、ただ牛牛牛と連呼するでもなく、その真ん中らへんの富裕層でなくて浮遊層、非常に不安定で、非常に微妙な位置にこの詩は、牛と牛とで表現を包囲するということを選ぼうとした。放牧の行われている牧場あるいはもっとでかい草原みたいなただっぴろい大草原の小さな家とかそういうものが牛と牛の間にあった。そこに真っ先に小躍りして入ってきたのがジュリアだった。

 彼にはアメリカというでかい土地は大きすぎたけど誰でもでかすぎるものは持て余すので別に彼がよいとかわるいとかいうわけではない。広すぎるものをすべて抱え込むのでなくてむしろ牧場イコールテキサスみたいなところから導きだされたオートメーション的な働きが牧場に吹き荒れてそれが彼の書く手だった。それが長々と続けば興味深いものになるはずだった。ところが何かの拍子に意識が途切れることがたびたびあった。牛の存在を思い出してどうにか芯をまっすぐ立て直そうと考えのだろう。彼は牛の元に戻る。牛はmooという言葉をアウトプットする。彼はそれを抱えてまた牧場に戻っていく。途中から気付いていたはずだ、彼の守るべき芯などはなくて彼自身が芯であったことを。ただ徐々に激しくなる自動的衝動がその思考を与えなかったと言えばそれだけかもしれない。

 しかしどうしてアメリカじんといえばなんとかだゼ、とか、なんとかじゃないのかい、ワーオ、とかなんとか、そういうワイルドな言い回しにされてしまうのだろうか。作品中においてはそれは遊びの道具として浮かび上がってはいるがすこし古めかしいような場違いなような気もするが、それにしたって本当は優しいボーイなのかもしれない外人がぶっきらぼうな喋り方にされてしまったり、普通の題名付けたと思ったのに邦題が「俺ジミー・レイ」になってしまってなんだこの恥ずかしい題名のCDはということになったりするんだが、そういう表現が選ばれたのもやはり直感というべきだぜ。

 簡単にいえばフザケているものとそうでないものが牛のアウトプッツによって交代する、そういう構造であり、ああそういう種類だなと感じるがそれがどうも中途半端な整合性を得ようとしていることにも注目したい。一部一部をとらえればこの詩には対話と独り言が霊媒を通過して混乱しているような印象もあるのだがそれらが整合性という意識を持ってしまったがために、なんだか中途半端なグローバルを目指しているキャプテン翼のようなといっても一般的ではないので、深みに向かうところでいきなり拡散してしまうような残念な趣を感じさせるのである。

 それが嘘だ。

 この作品は確かにコラージュだ。自己生産的なコラージュだ。だがどうも固執しすぎたそのmooという連結においてもたらされる混乱は感触のよろしいベクトルとはいえない。その言葉を取りに戻る彼の背中を思い浮かべる度に、放牧されてるのは牛ではなくて彼自身ではないかという幻想にかられる。たびたび持って帰ってくる固形化した衝動に魅力があるにせよ、媒介としてはひどく不幸な働きをしているといわざるをえない。確かにその場所には複数の言葉があり、複数のにんげんがいて、複数の国に付いて語り合っている。だがそれを記録したたったひとつのテープレコーダーから後日流れてくる音が平坦な意味合いでの音楽として受け止められるのと同様、それが詩としてあることに真実があっても二次元的には合致しない。それはまったくの嘘だ。


散文(批評随筆小説等) 批ギ ティラノサウルス『放牧』 Copyright 黒川排除 (oldsoup) 2006-03-10 02:22:49
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