虫も殺さぬ
佐々宝砂

ミミズには裏表があって、裏側は表に比べてちょっと色白で、ミミズは裏を下にしてないと這うことができない。こういうのこそ無駄な知識というべきで、ミミズを実際に手にとってみたひとは知ってるだろうし、ミミズなんか触りたくねーやというひとにはどうでもいいことだろうから、トリビアですらない。飲み屋で自慢したって誰も「へぇ」はくれない。そこらへんに当たり前にいる「ダンゴムシ」は日本本来の生物でなくて帰化生物なんだよ、なんて知識のほうがよっぽどトリビアではないかと思う。しかるに、普通一般的にみかけるナメクジは「コウラナメクジ」といって帰化生物で、日本本来のナメクジは退化した殻のあとを持ってないんだよ、っていう知識になると微妙だ。そもそもそのへんにいる普通のナメクジが退化した殻のあとを持ってると気づいてる人の割合は、いったいどれほどなのだろうか。そんなもん観察してない人が多数のような気がする。

しかし私は、どうしてもそういうことが気になるたちなのだ。ナメクジなんかいると真剣に観察してしまう(余談だけど前から気になってるのはコウラナメクジに小さなふたつの穴があること。あの穴は何なんだろう。今度図書館行ったら調べてみよう)。とにかく小さな生き物の細かい点をよくよく見るのが好きだ。どうしてか知らないけど昔からどうしても「そう」なのだ。

嘘ついてもしかたないから正直に書くけれど、こうした好奇心は、しばしば残酷な行動につながる。実際、子どものころの私は、小さな生き物たちにいろんな残酷なことをした。バッタやカマキリを引きちぎってハリガネムシを引きずり出してみたり、芋虫を小さなスコップでミンチにしたり、カエルを切り刻んだり、セミの腹を割ってみたり、オタマジャクシをつぶして渦巻き状の内臓を絞り出したりした。なんでそんなことをしたかというと、中身が見たかったからだ。機械好きな子どもが、やたらに機械やおもちゃを分解したがるのと似ている。長じるにつれ私の興味は分解から収集にうつり昆虫採集に興ずるようになったが、やはり虫を捕らえて殺すことにかわりはなく、私は嬉々として虫を捕まえては赤や緑のエタノールを虫に注射した。もちろん飼うこともあった。モンシロチョウやアゲハチョウなどを羽化させて喜んだ。しかしそれは私が十五、六歳くらいまでの話で、今は収集も分解も採集も飼育もしない。もっぱら観察だけをしている。

どうして収集や分解をやめたかというと、手塚治虫のインタビューをどこかで読んだからだ。昆虫採集というのはやはりどう言い訳しても「虫を殺す」ことであって、だから昆虫採集をやめたのだと手塚は言っていた。ああそうだそのとおりだ、と私は思った。それで私は昆虫採集をやめた。虫の飼育をやめたのは、朝日新聞の読者投稿記事を読んでからだ。真冬にモンシロチョウだかなんだか蝶の蛹を部屋にいれておいたら羽化しました、真冬なのに蝶がとんでて嬉しいです、とかいうような記事だった。私はそれを読んで「おめーあほか」と思った。この不運な蝶は、室内があったかいから間違って羽化してしまっただけで、まともに食べ物を探すこともできず、連れ合いを探すこともできず、かといって春まで生き延びることもおそらくはできず、孤独に死ぬほかない。虫の飼育というのは、結局そういう不自然を虫に強いることなのではないかと考え、私は虫の飼育すらあきらめた。

だが私は今も虫を殺す。たとえば刺す虫は殺す。痒いのも痛いのもいやだし、病気がうつるかもしれないのはやっぱりいやだからだ。蠅やゴキブリも殺す。家庭内に住む蠅やゴキブリは病原菌を媒介するからだ。私は、畑と田んぼを持っているので農作物の害虫も殺す。とはいえ害虫以外の虫を殺したくはないので、農薬は使わずもっぱら捕殺ないし天敵利用、または虫の嫌う自然物質(牛乳とかコーヒーとか木灰とか)に頼っている。また私はイエグモを殺さない。ゲジゲジも殺さない。ハエトリグモも殺さない。この3種の虫たちは、蠅やゴキブリをとってくれるから、害をなすどころか益虫だ(ゲジゲジもクモも昆虫ではないが「虫」ではある。「虫」という言葉は非常に意味が広い。ミミズもナメクジも広義の「虫」である。蛇だって「長虫」という呼び名や「マムシ」という固有名が示しているように「虫」である。嘘と思うなら漢和辞典をひいてみるがよろし。ハマグリだってタコだって「虫」だ。それこそどうでもいい無駄知識だけど、中国の古典では虎のことを「虫」と呼んでいる例すらある)。さらにいえば私は、庭木の害虫は基本的に殺さない。うちの庭の桑の木・イチジク・ダイダイはいわゆる害虫だらけで、夏になるとカミキリムシだのハゴロモだのイラガだのアゲハの幼虫だのが発生するが、私は基本的にどれも殺さない。しかしアオキの木にものすごく大量のエダシャク(いわゆるシャクトリムシ)がついたことがあって、殺したくないのでほっといたら食われ尽くしたアオキが枯れてしまい、食うものがなくなったエダシャクも死んでしまった。大発生したときは少しは虫を殺さなくてはならないのかもなと考えている。虫のバランスはとても微妙だ。

しかし、どう理由をつけたところで私が虫を殺しているという事実は、否定できない。誰だって無実ではないはずだ。蚊を叩いたことがないひと、蟻を踏んづけたことがないひとなんて存在しないだろう。ジャイナ教徒だってたぶん無理だ(ジャイナ教とは、羽虫を吸いこまないためにマスクをし、蟻を踏んづけないために箒で道を掃きながら歩く徹底した慈愛の宗教。動物も植物も殺さないので菜食主義だという話だが、では何を食べてるかとゆーことまでは知らない。虫をつぶすかもしれないので、もちろん自動車になんか乗らないらしい。こうしたジャイナ教の徹底的なところが、私は嫌いじゃない)。

私は、その人がジャイナ教徒じゃない限り、虫も殺さぬという人を信じない。まして虫を殺したことがないという人のことは、なおさら信じない。虫好きなら、虫好きであるだけ、虫を殺した経験があるはずだ。子どものころから虫が好きなら、きっと幼い好奇心から虫を「分解」してしまっているし、赤や緑のエタノールを虫に注射したことだってあるだろう。飼育法も知らないままクワガタやカブトムシを飼ってスイカを与えて、殺す気もないのに殺してしまったことだってあるだろう。虫好きというのはたいていミミズの裏表みたいなどうでもいいことが気になるたちのひとびとで、そういうひとは、どうしても「そう」なのであって、「そう」である以上、大人になって何かをきっかけに「虫はなるべく殺さないぞ」と決意するまでは虫を殺さずにいられないのだ。

つまり、虫を殺したことのない虫好きなんていやしない。虫派文学者のひとり奥本大三郎(ファーブル昆虫記の訳者、かつ仏文学者)も、「虫を殺したこともない虫好きはいない」という趣旨のことを書いている。確か『虫の宇宙誌』に載っていたことだったと思う。それを読んだときは我が意を得たりと思ったものだった。私の知人の昆虫学者さんも同じようなことを言っていた。この昆虫学者さんは、稀代の昆虫好きなくせに専門は農作物病害虫駆除で、要するに仕事として虫を殺しまくってきた人である。ただ、この昆虫学者さんにしても「なるべく虫を殺したくない」という気持ちは持っているようで、害虫駆除のための天敵利用や、虫を利用した農業の方法などを特に積極的に研究していた。天敵利用の害虫駆除は、他の虫を殺してしまうことが少ない(生態系のバランスを崩すことはあり得る)。しかし天敵を利用したってなんだって虫を殺すのは事実。

というわけで、私は「百蟲譜」を書くにあたり、虫を殺す詩も書いてきたし、これからも書くつもりである。私は虫が大好きだが、嘘をつくのは嫌いなのだ。



散文(批評随筆小説等) 虫も殺さぬ Copyright 佐々宝砂 2004-02-01 00:18:32
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