ヴィーナス
たたたろろろろ

 
彼女は両腕を失ってしまった。それはそれは悲しかったことであろう。

黒く光るグランドピアノ、銀色のハープ、古いのを買い換えたばかりのタイプライター、少し小さめのテレビ、立派なオーディオ、白くて大きな冷蔵庫、鳩が出る柱時計、木製のテーブル……腕を連想させるもの、全く関係のないものまで部屋中を破壊しながら三日三晩泣き続けた。

夜、男が長旅から帰ってきた。男は性質たちの悪い強盗団との決戦の跡のような部屋、泣きすぎたためと寝不足のために真っ赤に乾いた彼女の瞳、そして肩にある筈の物がついていない彼女を見て驚く様子もなく隣に腰をおろした。
そしてゆっくりと旅の思い出を語り始めた。

ずっと探していた本が小さな町の小さな古本屋に驚くほどの安値で眠っていたという話、意外な場所で意外な旧友に遇って意外なことに盛り上がったという話、鞄をひったくられて落ち込んでいたが次の町に行ったときに偶然その泥棒を見つけてボコボコにしてやった挙句有り金を全部ぶん取ってやったという話、お気に入りの長袖の服が野生の豚に引きちぎられて片方の袖が無くなってしまったがそれはそれでなかなかいいデザインの服になったという話。
男は旅から帰るといつも道中の面白かった話をした。彼女もその話が好きだった。だが今回だけはそんなことより慰めて欲しかったのだろう。彼女は何もいわずに俯いて話を聞いていたが最後の話の途中で怒り出した。男はそのことには触れずに彼女の髪を優しく撫でてこう言った。
 
「もう旅には出ないことにしたから。これからずっと一緒にいれるじゃねえか。困ることなんか一つもないだろ、な」

 お土産に買ってきた腕時計は彼女に気付かれないように壊して捨ててやった。

 

 両腕を失った彼女。涙はもう止まったが、ここ数日無力を嘆いてばかりいた。

新しいテレビやオーディオ、冷蔵庫を買いに行ったときにも何も出来ずに隣にいただけだった。家にいても料理も勿論出来ないし、紅茶も入れることも出来ないし、テレビのチャンネルさえ変えることが出来なかった。男は終始忙しそうに彼女の身辺の世話をした。文句こそ言わなかったが明らかに男は疲れていた。男は平静を装ってずっと微笑んでいた。そんな男を見て彼女は言った。
 
「私といるとあなたは疲れ果ててしまうわ。それにあなたは私の召使いじゃないもの。私がこんな風になってしまったんだからあなたは別れるべきだわ。あなたにはもっと相応しい人がいるはずよ」

 男は笑って、何を言い出すんだという顔をして言った。

「何も変わっちゃいないよ。俺がお前を抱きしめやすくなっただけだろ」
 するりと彼女の腰に腕をまわして痛いくらいに抱きしめてやった。



ヴィーナス 俺のヴィーナス
生きて後八十年ぐらいなら
嘘でも何でも お前を愛し続けるぜ
綺麗事だろうがなんだろうが
四六時中抱きしめ続けてやるぜ

 
 男はそんなうたを歌った。決して上手いとはいえなかったし即興で適当に作った詩のようだったが男はきつく抱きしめながらそう歌った。男には見えなかったが彼女は涙をこぼ零した。数日前とは違う涙を。



散文(批評随筆小説等) ヴィーナス Copyright たたたろろろろ 2006-02-10 12:13:49
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