清らかさと性について
渡邉建志

恋ってどんなものかしら。池に泳いでいるものですよ。

 

夜、庭を歩いていて池のほとりでぐんにゃりしたものを踏んだ。わたしは逃げた。

 

鯉は夜、飛ぶのだという。そのころ、庭ではよくぽちゃん、ぽちゃんという音がしていた。彼らは何からか逃げようとしていたのだろうか。


 

授業中に射精したことがある。人間は性的な興奮以外の興奮で射精することがある。僕はいつも動きがのろいので、教室の移動のとき、いつも最後で、なにものかに(先生かもしれないしじぶんかもしれない)に焦らされた。小学4,5年生のときから、音楽室からの移動でいつものろい僕は、無言の抑圧を感じて、なにかよくわからない怖い感情の盛り上がりが自分の中でわきあがってくるのを感じていた。今思うとあれがエクスタシーだったのだと思う。僕の中で、性的な盛り上がりはつねにそのマイナスなものとつながっていた、のかもしれない。そしてついに中学二年のときの、教室移動で、パソコンのシャットダウンができなくて、みんな帰っていって、先生が僕を焦らせた瞬間、僕の中でブレーカーが落ちた。世界が終わったみたいな、とても嫌な気分だった。先生はまだそこにいるし、まわりに学生もいるなかで、ぼくはひとり静かに痙攣していた、ばれないように、気をつけながら、一人で痙攣していた。当時僕はオナニーをしない主義者だったので、精液溜めに溜まっていた精液が全て出た。ものすごい量がでた。僕はお漏らししたみたいな情けない気分になった(小学校時代、お漏らしもなんどかしたことがある)。絶対これはみんなに悟られてはいけない、先生にも、皆にも。そう思いながら、僕はがに股でトイレまで歩き、大量に放出された精液をティッシュで拭いた。陰毛に絡んだり、パンツにべっとりくっついて、最悪だと思った。どうして僕は男に生まれたのだろうと思った。

 

僕がオナニーをしない主義だったのは、ずっと書き続けているけれど、キリストや仏陀がオナニーをしたり、セックスをしたりしたとは思えなかったからだ。キリストや仏陀のことを僕は何も知らなかったが、なにか清らかな存在に違いないと思っていた。僕は天使でいたかった。たとえば「はてしない物語」でブックス少年は女性(なんかいたよね、女王みたいなのが)を美しいと思うが、その女性と交わりはしない。僕にとっても、女性とはそういう存在だった。なにかきよらかな存在だった。ピーター・パンはいつか精通を迎えるが、ティンカー・ベルは精通を迎えない。そのかわりに生理はくるけれど、それは性的快感と結びつくものではない。ピーター・パンは女性の裸体を想像してオナニーすることになる。そうするともはやそれはピーター・パンではない。ティンカー・ベルとの関係性も変わってくるだろう。

 

恋ってどんなものかしら。性が目覚めて、清らかさへの憧れもあって、最終的に性にも屈してオナニーをし始めたあとで、しかし清らかさへの憧れも同時に抱いていて、矛盾していて、その矛盾をとくかのように、あのひとがあらわれて、僕はあの人とセックスをしたかったけれど、あのひとはそれを拒んで(それはたぶん自分(たち)の中の倫理観だったのだろう、高校生としての)、だけれども、キスしたり抱き合ったり、そういう同一感があって、それは清らかさと矛盾するものではなくて、まるで空気のようにそこにあった、あのひとはまるで血が通っていない人のように透明だった、あのひとにも生理はきたのだろうか、あのひとにも性器があり、性欲への曖昧な憧れがあったのだろうか、僕にはわからない、僕にはわからない。ただ、僕がかってに彼女をティンカー・ベルやベアトリーチェに仕立て上げたのだ。そして仕立て上げられても、それと矛盾しない、彼女のアイデンティティの曖昧さがあったのだ。

 

セックスと清らかさの二項対立をそうやって曖昧に解決してくれた彼女は突然消えて、清らかさだけが残って、大学生になったらする約束だったセックスは約束だけがのこって霧のように消えた。

 

吉本ばなながかつて、好きなものは?ときかれて「こいびととの愛のあるセックス」と答えていた。セックスと清らかさの二項対立のなかにいて、愛はこの両方を包み込むもので、だけど僕は、うまくいえないのだけれど、セックスは愛をはみ出ていくもののような気がする。ベン図のようなものを書いてみると、清らかさの円は愛の円のなかに入る(かもしれない)けれど、セックスの円は愛の円からはみ出ることができる。そしてそれが幸せでないという保証は無い。愛情という言葉があって、愛と情なのだけれど、愛にセックスはいらないと、やっぱり今でも思う。僕は彼女とセックスをしなかったことが、今の僕を形成していると思う。良い方向に、悪い方向に。どちらにせよそれが僕だ。でも僕は彼女を愛していた。間違いなく愛していた。だけど、「情」はどうだろうか。愛よりも情のほうがひろい概念で、友情とか同情とか、いろいろあるのだけれど、情のないセックスほど悲しいものは無いと思う、終わったあとで会話がないとか、男はタバコを吸い始めるとか、そういう、よく女の子の雑誌で見かけるサイテー男の行動です。なにかわからないけれど、にんげんは情でつながっていくし、情を通じさせる一つの形態として、セックスもありうるし、だからこそ「セックスで情が移る」というけれど、「愛が移る」とは言わないのだと思う。情から愛へと変質していくことは十分あるとしても。情というのは、コミュニケーションだし、それは会話かもしれないし、手を繋ぐことかもしれないし、一緒に歌うことかもしれないし、一緒におどることかもしれないし、散歩することかもしれないし、セックスすることかもしれない。そういう形のセックス(愛はないけれど情はある)を僕は、なぜかまったく否定する気になれない。あれだけ性を否定していた僕が。あるいは、逆に、愛が清らかであるべきだからこそ、セックスは、情の通じ合いであるべきなのかもしれなかった。ということは僕は彼女を一方的に愛していた、彼女ももしかしたら僕を愛していた、だけど、情は通じ合っていただろうか。だけど、情は通じ合っていただろうか。だけど、情は、通じ、合って、いただろうか?清らかにして、ベアトリーチェにして、逆に僕は彼女を遠ざけていなかっただろうか。情が通じるとは信じていなかったのではないだろうか。僕は自分を卑下し、彼女を崇拝し、そういう違うレベルに置いていた関係で、はたしてセックスは成り立っただろうか。同じ人間として情のコミュニケーションは成り立っただろうか。

 

僕はいまだに女性というものがわからない。僕はいまだに僕が男性であるということもわからない。性欲と愛の関係も、よくわからない。僕が女性を女神として崇めたいという気持ちがあるんだとすれば、いや、絶対にあるのだけれど、僕は自分の性欲をおそらく他の場所で埋めるだろう。それは一般に不倫というのだろう。なぜ僕は性を暗いものとして捉えてしまったのだろう。なぜ高いレベルの愛情と性欲は矛盾すると考えてしまったのだろう。なぜ。なぜ。なぜ。(思考停止)


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好きで好きで仕方のない人がいます。素敵で、誰の目からも素敵なんだろうな、と思ったりします。でも案外そうではなかったりするものなんですね。僕が大好きなAさんのことを、僕の大好きなBさんが苦手だということは、ありうることだと言うことです。それが、僕のこの世の七不思議のひとつです。

 

それでもやはり、「誰からも好かれてしまう」タイプの人はいて、嫌われると大いにへこむ僕なんかは、いいな、うまく世間を渡れて、と思うのですが、たぶん本人は本人で、僕なんかには見えないいろいろな苦しみがあるのだろうと思います。

 

好きで好きで仕方がない人たちが僕にはいて、some of themは僕から永遠に去り、some of themは僕のまわりにいて、the others of themはまだ僕の前に姿を見せていません。永遠に去ってしまった人のために苦しむのは辛いので、彼/彼女らのことはあまり深く考えないようにして、あとの2群について考えるのは、とても幸せなことだし、彼/彼女らがいる世界を残して自死するというのはどういう不始末でしょう。

 

僕は何事も美化しすぎる傾向が有るのですが…天使だと思っている人が数人います。あれはたぶん人間ではないと思います。ただ、天使と人間の間に存在しうるのは友情だけなので、そこは履き違えてはいけないところなのだと思います。うまくいえないのだけれど、絶望的に壁を感じるのです。その壁は友情に抗する壁ではなく、恋愛に抗する壁なのですが。

 

またこのような駄文を書いてここに垂れ流してしまいます。天使たちはこの時間に何を考えているのだろう、と思います。たぶん存在しないんだろう、と思います。たぶん、僕の前にいるときだけ、僕の前には存在するのだろう、と思います。それ以外の時にはたぶん、存在しないのです。息もしていないし、食べてもいないし、それは「ねじまき鳥」における妻のような存在です。存在しているようで、存在していないようで、彼らはチャットのみが許されるのですが、チャットしたからといって、回線の向こうの妻がほんものの妻かどうか、分からないわけで。天使たちを人間に引きずりおろす、というのが僕のテーマなのですが、それはすなわち天使たちもヴェールを引っ剥がせば食べて吐いてウンコもするぜという証明をする、という、パゾリーニ的世界であって、あんまりいい趣味とは思えず、あんまりそれをライフワークにしたくはありません。むしろ、なぜ男の人は女の人を美化するのか、なぜ男の人は女の人を忘れられないのか、それをライフワークにしたいなあ、という気持ちはあります。ベアトリーチェ、ラウラ、ノルウェイの森、グレート・ギャツビー、明暗、三四郎、智恵子抄、アーリーン・ファインマン。なんとなく、全て過去が美化されているような気がします。グレート・ギャツビーで、美化し続けてきたほんものの彼女に出会ったギャツビーが、その興奮の冷めた後、美化し続けてきたその時間の贅沢さをふと思うようなシーン、そして美化してきた姿と現実との少しの乖離について考えるシーンがあったような記憶が有るのですが、そうした物事について考えたいのです。例えばもし僕が僕の永遠の憧れであるAという女の子に今もう一度会えたとして、がっかりしないだろうか、ということです。普通の子になってしまって、と思わないだろうか、ということです。彼女の処女性について何かを思わないかということです。フォークナーが「響きと怒り」の中で、処女性が重要なのは男にとってであって、女にとってではない、とある種の極言をしていますが、わりと的を得ているような気がします。Aは永遠に処女でなくてはならないのです。たぶん。だからこそ、僕はAにはもうあってはならないし、それ以前にAが僕のことを嫌っているから問題外なのだが。女とは、いったい、なんなのでしょうか。「男とはいったいなんなのでしょうか」という問い以上に、僕はこの問いが重くのしかかってきます、それは僕が男だからでしょうか。あんなにも重い謎を含んで存在し、あるいは存在せず、あるいは疾走して去っていく、あの女という存在は、いったいなんなのでしょうか。あれは、僕自身なのでしょうか。なんとなく思います、僕がああなりたいのだ、と。そして、僕はいつも嫉妬をするのです。近寄れば近寄るほど知りたいと思い、知れば知るほど嫉妬をする、しかも謎はいつまでもとけないままたまねぎのように剥けていって、気がつけば消えてしまっている、という、存在のあり方。あなたは誰と僕は叫びたかった。自己主張してよ。かっこ悪いぐらい自己主張してよ。わたしを見て、わたしを見てって叫んでよ、絵の展示会開いてよ、映画作ってよ、ホームページ作ってリンクばら撒いてよ、わたしわたしわたしって言ってよ!!

 

だけど、あの種の人たちは何もしないでただ微笑んでいるのです。仏のように。京都の国宝の弥勒像は、それに恋した大学生が抱きついたせいで小指が折れてしまったそうです。そして弥勒は傷ついてしまった。不可逆反応を起こしてしまったのです。天使と人間が交わるとはたぶん、そういうことなのではないかと思います。わたしが人間である以上、天使たちとは、たのしく語らっているに越したことはないのだなあと思うのです。


散文(批評随筆小説等) 清らかさと性について Copyright 渡邉建志 2006-02-05 02:23:18
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