妻の背中
服部 剛
玄関のドアを開くと
右手の壁に一枚の絵が掛かっていた
六十年前
I さんが新婚の頃に過ごした
緑の山に囲まれた海辺の村
二十年前
定年まであと一年を残して
急病で世を去った夫は
生前 日曜日になるとスケッチブックを抱え
ふらりと海へ出かけたという
不器用に曲がった線で描かれた
額縁の中に傾いた海辺の村
海の青 山の緑 家々の屋根の茶色
今は亡き I さんの夫の素朴に滲む色合いは
寒い冬の朝にこわばった僕の胸の内をほぐした
老人ホームに着くと I さんはお茶を飲んでいた
「 旦那様の絵、いいですね 」
「 あら、そんなのあったかしら? 」
丸くなった瞳の下に頬をほころばせた
週に一度
老人ホームの車が迎えに来る朝
I さんは仏壇に手を合わせてから家を出る
人知れず微かに目尻を下げる
夫の遺影のまなざし
仏壇の中から
ドアを開けて部屋を出て行く
老いた妻の背中を見送る