ある美しい愛の固定観念について/「智恵子抄」をとにかく読む(1)
渡邉建志

ある美しい愛の固定観念について

「智恵子抄」をとにかく読む(1)

読みます。アガペーとエロスとセックスについて考えまくります。予定です。




「人に」

いやなんです
あなたのいつてしまふのが――

有名な第一詩です。いつてしまうというのは、お嫁にいつてしまうのです。たぶん智恵子が、光太郎とは違う人の所にいくのです。それをうらんで彼はこんなことを言います。

なぜさうたやすく
さあ何といいませう――まあ言はば
その身を売る気になれるんでせう

すごいです。「さあ何といいませう――まあ言はば」がすごいです。考えた末になんと人の嫁入りを身売りだといって貶します。こんな話があるでしょうか。そしてこれが嫉妬でなくてなんでしょう。かれはでも嫉妬とは認めません。智恵子が結婚するということ自体を認めていないようなのです。つまり(もし仮に)智恵子が光太郎に嫁にくる場合でも、同じように彼は、身売りだと言えたのです。(たぶん、言えたのです。すごいことですね。それは後々の詩で)結婚についての貶しは続きます。

あなたはその身を売るんです
一人の世界から
万人の世界へ
そして男に負けて
無意味に負けて
ああ何といふ醜悪事でせう

とんでもないことを言います。智恵子のようなすてきな女性が結婚することは男に負けているのだといいます。無意味に負けているのだと。このときに、光太郎は潔白な人間ですから、おそらく「男」に自分自身を含めることを、当然として認めるでしょう。つまり、光太郎にとって智恵子は結婚対象ではない、恋愛対象でもない、実は崇拝対象なのだといえるでしょう。こういった、女の子を崇め奉りまくる姿勢、ぼく大好きです。現代では絶滅の危機にある恋愛の形です。まさに、光太郎にとって智恵子はベアトリーチェだったのではないかと思います。そして、そのベアトリーチェが普通の男(ひょっとするとこの詩の目的はただ相手の男を貶したいだけなのかも知れませんが)に嫁ぐということを、いけないことだと言っているのです。たぶん彼は嫉妬しているのです。が、嫉妬とは認めません。なんなのだこの気持ち、などと考えているのです。

浪の砕けるあの悲しい自棄のこころ
はかない 淋しい 焼けつく様な
――それでも恋とはちがひます
サンタマリア
ちがひます ちがひます
何がどうとはもとより知らねど
いやなんです
あなたのいつてしまうのが――

もはやきかんぼうのわがままです。

智恵子に恋してるから悲しいんじゃないんだといいます。そして「サンタマリア」という一言がただ置かれるのですが、これは悲しみをマリアに訴えているのかもしれないし、あるいは僕はこっちだと思うのですが、智恵子をサンタマリアと同一視しているのかもしれません。とにかく恋とはちがひますちがひますと一生懸命に否定です。何がどうなのかわからないけどあなたが嫁に行くのはいやなんだ!と言いますそして最後の一行がふるっています。

おまけにお嫁にゆくなんて
よその男のこころのままになるなんて

結局よその男だからいやなんであって、どうせなら僕のところに来てくれればいいのに、と言う本音が見えちゃうわけですね。だけど、これは恋ではなく崇拝なんだから、やっぱり僕のところに嫁に来てもらってもちょっぴり困っちゃうな。だけど、他人の男のこころのままになるのは最悪なケースだ、というわけで、ごねごね言ってるけど、結局これって嫉妬であり恋なのは、他人の目からは簡単に見破れると言うか、断言できてしまうんですね。しかし本人としては、もやもやしちゃうんですね、女としてみていいんだろうか、そんなエッチな目であのひとをみちゃいけないんじゃないだろうか(悶)等、あぁ、明治ロマン。


+


「或る夜のこころ」

ひっかかりません。だれかコメント欄で良さを教えてください。ただ、

ならびゆくわかき二人は
手を取りて黒き土を踏めり

ってかっこいいっすねめちゃくちゃかっこいいすね。
ならびゆくわかき二人、ですよ。渋谷で見かけるカップルにこんな形容を私は思いついたろうか。なによりも「踏めり」ですよ。四段活用已然形「え」音+完了助動詞「り」の美しさよ。文語バンザイ。





「涙」

世は今、いみじき事に悩み
人は日比谷に近く夜ごとに集ひ泣けり

いみじき事ってなんでしょう。大正元年だから、明治天皇崩御とか、乃木さん殉死とかでしょうか。。いや、乃木さんは9月に亡くなってて、天皇は7月で、この詩は8月ですね。天皇死んじゃってみんな日比谷で泣いています。そんななかで我らがカップルがですね、

松本楼の庭前に氷菓を味へば

松本楼で氷食ってます。松本楼のカレーライスはおいしいです。ちょっと高いけど。そして、

君の小さき扇をわれ奪へり
君は暗き路傍に立ちてすすり泣き

いちゃついてます。扇をとっちゃうと智恵子はおもちゃを取られたみたいに泣くんです。めでたいですね。

路ゆく人はわれらを見て
かのいみじき事に祈りするものとなせり

人々は、彼らが天皇のことで泣いているんだと勘違いするわけです。で、いいわけします。

これもまた或るいみじき歎きの為めなれば
よしや姿は艶に過ぎたりとも
人よ、われらが涙をゆるしたまへ

「これもまた或るいみじき歎き」というのがいかしています。天皇とかより今目の前の恋愛に必死なんです。天皇も重要かもしれないが我々の恋愛も重要だと。そして、その姿はちょっと「艶」すぎるけど、まあ許してちょと言うわけです。独り者としては許しがたいです。




「おそれ」

好きです。

いけない、いけない
静かにしてゐる此の水に手を触れてはいけない
まして石を投げ込んではいけない
一滴の水の微顫(びせん)も
無益な千万の波動をつひやすのだ
水の静けさを貴んで
静寂の価(あたひ)を量らなければいけない

この聯だけで「いけない」が5回使われているのに気付かれたでしょうか。そしてそれがちっとも稚拙ではないことを。一つの音楽を作り出していることを。
さて「静かにしてゐる」「水」とは何のことでしょうか?

あなたは其のさきを私に話してはいけない
あなたの今言はうとしてゐる事は世の中の最大危険の一つだ
口から外へ出さなければいい

単刀直入に言うと智恵子の愛の言葉が水を波立てるのです。智恵子と光太郎の間に今あるのは静かな水だと言うのです。Alas!!
そして、「最大危険」という言葉遣いは光太郎ワードのにおいがして好きです。
ここからの展開は夏目先生を思わせるスピードで好きであります。すごいスピードです。

出せば則ち雷火である
あなたは女だ
男のやうだと言はれても矢張女だ
あの蒼黒い空に汗ばんでゐる円い月だ
世界を夢に導き、刹那を永遠に置きかへようとする月だ
それでいい、それでいい
その夢を現にかへし
永遠を刹那にふり戻してはいけない
その上
この澄みきつた水の中へ
そんなあぶないものを投げ込んではいけない

出せば則ち雷火である、を見ましょう。「則ち」、という言葉の後は短くおさえたいものです。たしかに短くて「雷火である」と短く切ります。そして、つぎに「然るに」どうなのか、と問いたくなるわけですが、然るに、「あなたは女だ」とここも短く言い切ってしまいます。かっこいいです。ここから語尾の「だ」が連続します。その言い切り加減が最高です。「女だ」「女だ」「月だ」「月だ」。さらにくりかえし「それでいい、それでいい」こんどは頭韻の「そ」に注目して、「その夢」「その上」「そんなあぶないものを」と来ます。同時に、例の「いけない」文末が二回くりかえされています。この音楽はいいですね。読んでみるときもちいいです。
私がいちばんやられるのは「その上」です。
「永遠を刹那にふり戻してはいけない」というキメ台詞でこっちがはっとしているうちに、息もつかせずに「その上」と攻めてくるその隙のなさです。
音楽がおわると2行のすこし長い文が続きます。

私の心の静寂は血で買つた宝である
あなたには解りやうのない血を犠牲にした宝である
この静寂は私の生命であり
この静寂は私の神である
しかも気むつかしい神である
夏の夜の食慾にさへも
尚ほ烈しい擾乱を惹き起こすのである
あなたはその一点に手を触れようとするのか

いけない、いけない
あなたは静寂の価を量らなければいけない
さもなければ
非常な覚悟をしてかからなければいけない
その一個の石の起こす波動は
あなたを襲つてあなたをその渦中に捲き込むかもしれない
百千倍の打撃をあなたに与へるかも知れない
あなたは女だ
これに堪へられるだけの力を作らなければいけない
それが出来ようか
あなたは其のさきを私に話してはいけない
いけない、いけない

恋愛は擾乱なのです。一方、非恋愛(友情?)は静寂なのです。静寂は神だといいます。光太郎の心の静寂は、血を売って手にした気の難しい神なのです。さて、恋愛を取るのか、静寂を取るのか、というこのぎりぎりのバランスは、いちばん最初の「いやなんです/あなたのいつてしまふのが」の、恋とはちがひます、ちがひますという必死の否定と同じ心の動きなのでしょう。ここでも否定だらけです。「いけない」「いけない」「知れない」「しれない」とにかく矢継ぎ早に否定です。二人の(?)こころの永遠の静けさを守るために。




「からくりうた」

かんべんしてください。

酒の泡からひよつこり生れた
酒のやうなる
よいそれ、女が逃げたええ

長沼智恵子は酒造りの家に生れた人らしいです。それを、酒の泡からひよつこり生れた酒のやうなる女ってのは、べたぼれだええ、そうですかええ、かんべんしてください。





「或る宵」


うたから始まります。

瓦斯の暖炉に火が燃える
ウウロン茶、風、細い夕月

ここちよい響きです。7+5、8(6+2)+7のリズム。とくに「ウウロン茶、風」の風がいい。その短さがいい。

―それだ、それだ、それが世の中だ
彼等の欲する真面目とは礼服の事だ
人工を天然に加へる事だ
直立不動の姿勢の事だ
彼等は自分等のこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまった
曾(かつ)て裸体のままでゐた冷暖自知の心を―

でました、光太郎語「天然」です、それに対置されるのが「人工」です。そして智恵子と光太郎の極上の概念こそが天然であり、かれらが忌み嫌う社会はすなわち人工である。智恵子と光太郎にとってどれだけ社会が汚いものか。そういう態度を取られると、僕はちょっと腹が立つかもしれません。しかし、ふしぎと光太郎に関してはあまり反感を覚えません。つまり光太郎には「僕らはまだ自分の心の天然を失っていない」という矜持があるのです。同時に「社会の人たちはこころを世の中のどさくさまぎれになくしてしまった」というのです。ここにある「光太郎VS社会」の構造は今後頻出します。それを、いやみったらしいと言って嫌う人は、智恵子抄は読まないほうがいい。その高踏主義を美しいと思える人しか読めない本だと思います。さらにここには光太郎語「裸体」もあります。

あなたは此をみて不思議がる事はない
それが世の中といふものだ
心の多くの俗念を抱いて
眼前咫尺(しせき)の間を見つめてゐる厭な冷酷な人間の集りだ
それ故、真実に生きようとする者は
―むかしから、今でも、このさきも―
却て真摯でないとせられる
あなたのうけたやうな迫害をうける

あるいはほとんど気の狭い、社会不適合者の言葉のようにすら思えます。社会とは悪い奴らばっかりなのだと言います。そして、「天然」な智恵子は「迫害」を受けるというのです。被害妄想的です。しかし、それを面白いと思って読めないと読める本ではありません。事実悪質のゴシップによって彼らは苦しめられたそうですから。

卑怯な彼等は
又誠意のない彼等は
初め驚異の声を発して我等を眺め
ありとある雑言を唄つて彼等の閑な時間をつぶさうとする
誠意のない彼等は事件の人間をさし置いて唯事件の当体をいぢくるばかりだ
いやしむべきは世の中だ
愧(は)づべきは其の渦中の矮人(わいじん)だ
我等は為すべき事を為し
進むべき道を進み
自然の掟を尊んで
行住坐臥(ぎやうぢゆうざぐわ)我等の思ふ所と自然の定律と相もとらない境地に到らなければならない

ここにも激しく光太郎VS世間、「天然」「自然」VS「卑怯」「矮人」の構造です。口を極めてののしっているようすが面白いです。なにしろ矮人ですぜ!「彼らの閑な時間をつぶそうとする」!なんというか、すごいですね。「グレート・ギャツビー」冒頭のveteran bores(筋金入りの退屈人)というのを思い出します。そいつらにたいして、我等はあくまで自然の掟を尊ぶのです。ちょっとした選民思想を感じます。だが、それがいい。自然の「定律」というのもなんだか光太郎ワードです。

最善の力は自分等を信ずる所にのみある
蛙のやうな醜い彼等を信ずる所にのみある
蛙のやうな醜い彼等の姿に驚いてはいけない
むしろ其の姿にグロテスクの美を御覧なさい
我等はただ愛する心を味へばいい
あらゆる紛糾を破つて
自然と自由とに生きねばならない
風のふくやうに、雲の飛ぶやうに
必然の理法と、内心の要求と、叡智の暗示とに嘘がなければいい
自然は賢明である
自然は細心である
半端物のやうな彼等のために心を悩ますのはお止しなさい
さあ、又銀座で質素な飯でも喰ひませう

なによりもすごいのは「グロテスクの美」です。社会を馬鹿にしきっています。世間は半端モノであり、我々は清く貧しいのです。それにしては最後の一行で「銀座」なのが気になるのですが。。昔の銀座は安い店もあったのかしら。僕は恋人と銀座に行ったとき、金がないので喰った「銀座で質素な飯」は、マグロ市場のマグロ丼500円弱だった覚えがあります。しかし二度と行きませんでした。今の銀座って、そういう街じゃないんです。


つづく(予定) 

2005/10/21,22 2006/01/08改稿


散文(批評随筆小説等) ある美しい愛の固定観念について/「智恵子抄」をとにかく読む(1) Copyright 渡邉建志 2006-01-08 17:51:54
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