詩についての雑感②
窪ワタル
詩はなぜ売れないのだろう?多少とも、詩に親しんだことがある人なら、このことを考えないはずがない。なぜなら、詩は、もっと売れていいはずだからである。
詩は面白い、詩はカッコいい。小説や、芝居や、音楽に、映画に、ダンスに、あるいは美術作品に負けないくらい面白くカッコいいものである。
にもかかわらず、詩は売れていない。売れないから、詩集も、詩誌も馬鹿高い。馬鹿高いので馴染みがない人は手に取らない。まさに悪循環である。
で、これにはきっと原因がある。
私がおもうに以下のことがその主なものではないだろうか?
一つには、詩は誤解されている。「キモイ」とか「イタイ」とか云われて食わず嫌いされているのだ。そもそも、「キモイ」だの「イタイ」だの云っている人の多くは、ろくな詩を読んでいないか、詩でないモノを詩だとおもい込んでいるか、それとも、詩そのものに興味も関心もなく、ただ、イメージとして「キモイ」だの「イタイ」だのと云っているのだ。
本当は、そういう「偏見」こそ「キモイ」し「イタイ」し「モッタイナイこと」だと気付きもしないで。
だが、これにも原因はある。私がおもうに、詩との出会い方が歪なのである。
多くの人が最初に詩と出会う場は、学校である。国語の教科書には必ず詩の単元がある。短い人でも、9年間の義務教育中には幾つかの詩を読まされているはずである。しかし、まあ、はっきり云って教え方が良くない。このことを書くと長くなるので割愛するが、結論から云って、詩は教えられるものではなく、出会うものだ。しかも、いわゆる「お勉強」には馴染まないものなのだ。
詩と出会うもう一つの場所として、今日大きな役割を担っているのはインターネットである。検索エンジンで「詩の投稿」などと入力して検索しようものなら、それこそ夥しい数のサイトに出会うことが出来はずである。しかしながら、その中身が問題なのだ。
はっきり云って、詩は誤解されている。ろくに詩も読まず、文芸にさして興味もないであろう人達が、まるで日記か、落書きでもするように、何がしか書いていて、それを詩だとおもっているのだ。それは本来、人様の鑑賞にたえ得るものではない。まさに「キモイ」し「イタイ」ものなのだ。で、そうした「キモイ」「イタイ」ものしか目にしたことがない人達によって、詩は日々誤解にさらされねばならない。そんなもんは売れなくて当然である。私だって買わない。
だが、詩が売れない原因は今挙げたことだけではない。もっと根本的な、単純明快な理由がある、と私はおもう。つまり「売ろうとしないものは売れない」のである。
音楽ならば、その音楽を売るのを音楽家任せにはしない。ちゃんとプロデューサーがいる。絵画なら、画商がいる。みなその道のプロがいて、売るための戦略を立てて実行している。だから、売れるのだ。詩はどうだ?出版社は?文芸誌は?賞レースの主催者は?そこまで責任を負っているのだろうか?売ろうとしているのだろうか?
今、世間で詩だとおもわれているものに対するモノへの個々の評価は別にして、詩が売れないのは詩人のせいではないと、私はおもうのだ。
もちろん、「売れるからいいモノだ」と云うのは大きな間違いである。ただ、手立てを尽くせば「いいモノ」は少なくとも今よりは売れるのではないだろうか?
「キモイ」「イタイ」くらい売れない原因を、詩や、詩人に求めている「キモク」「イタイ」現状について、詩人自身が考え、手を尽くそうと云うのは、矛盾である。矛盾ではあるが、文句の一つぐらいは云ってもよかろうとおもう。