ペイター「ルネサンス」 (4)
藤原 実

あらゆる芸術になにか根本的に共通するひとつの想像的な思考があって、それが作者個人の志向性によって詩や音楽や絵画などの形態に翻訳される、というような内容主導主義をペイターは否定する。


 


「各芸術の感覚的内容は、他の芸術の形には翻訳不可能な特殊な美の相あるいは性質をもたらし、劃然と種類の異なる印象を作り出す、という原理を明確に把握することこそ、すべての本当の美的批評の第一歩となるのである」
                              (「ジョルジョーネ派」)

 
たとえば絵画であれば、その主題の文学的要素------題材が劇的であるとか、描かれている人物が美女であるとか------によって評価されるのではなく、「純粋な線と色の新しい創造的な処理」にこそ画家の才能はあらわれるのであり、


 


「まず第一に、感覚を喜ばさなくてはならない。ヴェネツィア・ガラスの破片のように直接的官能的に喜ばさなければならない」
                               (「ジョルジョーネ派」)

 
のである。



「芸術は、単なる理知から独立して、純粋な知覚の対象となること、主題あるいは内容に対する責務を振り棄てることを目指して、不断に努力している。理想的な詩や絵においては作品の構成要素が渾然と一体になっているため、内容あるいは主題が理知を動かすだけのこともなければ、形式が目あるいは耳を動かすだけのこともない。そこでは形式と内容が融合一致して「想像的理性」に単一の効果を与えている」
                                (「ジョルジョーネ派」)

 
『ルネサンス』のなかでも、もっともよく知られた一節、


 


「あらゆる芸術は音楽の状態を憧れる」(「ジョルジョーネ派」)



は、こういうところからでている。


 


「芸術の理想、この内容と形式の完全な一致が申分なく実現されているのは、音楽芸術である。至上の瞬間においては音楽では目的と手段、形式と内容、主題と表現の区別がつかない。それらは互にかかわりあい,完全に融和しあっている。それゆえに、すべての芸術は音楽 ------ その完全な瞬間の状態を絶えず志向する」
                               (「ジョルジョーネ派」)

 
高橋源一郎は、『小説教室』(岩波新書)のなかで、谷川俊太郎の「かなしみ」と藤井貞和の「詩織」という詩を例にあげて、「すべての詩は、その、はっきりとは見えない、けれどはっきりと存在していることだけはわかる、ある形、に向かって書かれているように、わたしには思えるのです」と言う。


 


「短い詩と、それより少し長い詩、この二つは、明らかに詩です。
 しかし、なぜ詩なのか、説明してくれ、といわれると、それは難しい。改行しているから詩、というわけではないし、韻を踏んでいるから、リズムがあるから、繰り返しがあるから、詩だ、ということにはならないのです。
 わたしは、詩、という確固たるものがあって、それに向かっているから、詩なんだ、という説明がいちばん正確なのではないか、と思っています。
 谷川さんの詩では、もうこれ以上、書くべきことはない、という感じがします。また、藤井さんの詩でも、これでもう十分だ、十分相手に(読者に)届いた、という感じがする。それぞれの詩、そのことばの内容と、形が、ぴったり一致している、という感じがするのです。それは、おそらく、この二つが、ほんとうは「うた」だから、ではないでしょうか。
 うたわれるうたを聞いている時、人は、その一つ、一つの、ことばを聞いているのではありません。そこに響くものを聞いているのです。それは、向こうから、強く、まっすぐ、やって来て、わたしたちを貫きます。それは、時に、まるで、神からのメッセージのように、眩しい」

                           (『小説教室』(高橋源一郎著/岩波新書)



「ことばの内容と、形が、ぴったり一致している」、「ほんとうは「うた」だから」、「一つ、一つの、ことばを聞いているのではありません。そこに響くものを聞いている」------これらはほとんどペイターが『ルネサンス』で言っていることと同じだが、高橋さんは、ペイターについてはどこにも触れていない。でも、きっと読んでいるだろう。それはこの『小説教室』という本のなかで、かれが一時期、吉田健一に心酔していた、と書いてあることからも察せられる。吉田健一はペイターの訳者でもあるから。


その吉田健一の『英国の近代文学』を読むと、吉田はヒューム、エリオット、リチャーズをさほど評価しない(エリオットの有名な個性の没却論などに対しては「[エリオットは]錯乱している」とまで言っている)一方で、ワイルドやシモンズをひじょうに高く買っている。


ワイルドもシモンズもペイターからひじょうな影響を受けた弟子であり、とくにワイルドはペイターの形式重視の考えを極端にし、もっと大胆に主張して、モダニズムの魁のひとりとなった。


エリオットは「ペイターはこの本で後の世代に属する一流の人間には誰にも影響を与えなかったと思う」(「アーノルドとペイター」)と言ったが、事実と違っている。(そもそもエリオット自身にもペイターからの影響が垣間見れるのだが)ジェイムズ・ジョイスやヴァージニア・ウルフへの直接の影響とともに、


 


「模倣と類似を基準とする「模倣的」芸術から、「形式の感覚」をそなえた「装飾的芸術」へ------ワイルドの要約した現代芸術の動向は、ペイターがモダニズム芸術の印象主義的な傾向を予告するのと同様に、そのフォーマリズム的な傾向をいちはやく予告している。結局のところ、ペイターの印象主義とワイルドのフォーマリズムのふたつの立場はともに、モダニズムのなかに見いだしうる反リアリズムのふたつの流れを典型的に示しているとは言えないだろうか」
                      (「モダニズムの詩学」丹治愛(みすず書房) )



というような先覚者としての栄光もペイターのものであることを忘れたくはない。





(注:『ルネサンス』からの引用は富士房百科文庫版(別宮貞徳訳)による)



散文(批評随筆小説等) ペイター「ルネサンス」 (4) Copyright 藤原 実 2004-01-19 00:35:42
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