たりぽん『眠ってしまえばいい』
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=49584
◇
眠りは明確でない。夢というものは未だ解明されないところが大きいものだ。明確でないものは詩として書きやすいし、書いていて楽しい。月自体は明確でも月の光りとなれば明確ではない。月に関してもまた、月の魔力であるとかそういう部分においては明確さを欠いている。そういった抽象的なものに色を付けることは詩人の本領本分だ。粘土をこねくり回す子供のようだと言われればおそらく、子供の作る作品の素晴らしさを説くぐらいの用意はあるだろう。だがそれでいて説くのをめんどくさがるのは詩人に与えられた特権だ。ああ何もかもめんどくさい。そうだ、眠ってしまえばいいんだと。眠ってしまえばいいと言いながら眠れてはいないのがこの作品、やあグチグチやっている。こころの中に大いなる葛藤がありそれが詩情を書き立ててあるのならば眠りの前の段階とは飛ぶ前の鳥に似ている。ではわたくしめは鳥の目を少し拝借してまいる次第。そしていちばんきれいな所に着地。あとは土足でドカドカやる。いちばんきれいなところから書いていくか。一連目はすごいよろしい。一連目の秀でたリズムを研究して活かせたならさらによい作品が出来たと思う。それは作者のすべきことであっておれはえーっと、そのリズムの変化のうちにいかに眠りが誘われているか、いや、題名から言えばいかに眠りが誘われていないか、ということを考えなければならなかった。ともかく彼がヒネているかいないかによって本当に眠ったらよろしいのか眠っちゃ駄目なのか焦らされるのは好きなのか嫌いなのか、明かりは消してほしいのか、そのへんがくっきりはっきりしてくるんだけどこればっかりは彼に聞かねばならんのでおれは彼の作品に裏口から侵入するべく今準備をしている。例えば構造的にはこの詩は五回の繰り返しの後サビだとかAメロがあってBメロがあってサビだとか、おおよそ批評をこれからしようとしているものに取っては必要のない材料ばっかりいじくり回してようやく、大きい空白は回帰であるかななどと思ったりしているのだがやっと道具が揃った。さあ、せっかくひとりに対して批評を書くんだから、中に手を入れて引っ掻き回したり体ごとのめり込んで這いずり回ってやろうではないか。よいではないか。まず通読して考えたことは、どうやら、彼は不意に求めたり求めなかったりしたものを引き寄せたり突き飛ばしたりしているようだということ。というとほとんど全部じゃねえかよとドツかれそうなので不意という点が重要であるということを付け加えておこう。彼から発露しているものは偶然のものであって彼の意図している部分の割合は少ないように思われる。というのも彼がそれを完全に抱き込むのではなくどちらかというと遠い視点から眺めているにもかかわらず手に取ろうとはしているものの人間の手ってこんなに短いんだな人間っていいなーという感じであってもなくても彼の意図通りであれば彼の手の長さにかなった言葉が出てくるはずであり、それゆえ少なくとも発露してきたものに対して格闘しておるのは確かな話なんであって、では彼は何に対して歌って踊って暴れて動いているのか、例えばそれらの中でも特に近いもの、虫であったり手であったりギターであったり性交であったり交合であったり交接であったりして、それらが「なら/眠ってしまえばいい」とされているところの彼の、独白でありすがっている部分である。縋っている。漢字むずかしい。独白の部分はおいておくのであって、カギ括弧でくくった部分なんかは仮定なんであるが、本当に眠りたいときは眠ってしまえばいいだなんて思わない。昔小学校のときだが、自宅に帰った友達が家に帰って玄関で突っ伏して寝てましたよ、などと母親から聞いた話をそのまま担任がプライバシーも尊重せずにクラス中に暴露したことが思い出されてならないがそれにしてもおれのたとえ話は小学校の頃の話しかないので痛々しい。が、本当に寝たいときには理由などいらんのですよ。そこに理由を捏造しようとするところに恐れに近いものがあると考えられる。恐れ? ああ恐れですよ。この詩に関しては恐れに目を配っていただきたいといってもうっとうしさマックスハートだと思うので、よみとくに当たってはこのキーワードを中心にコマをすすめ、コマってなんだよ、これらのワードを中心に突っ込んでいくとよろしいと提示する。それは次の三つ。夜、眠り、死。いずれも(というかひとつはそのまま)死につながるイメージでありすなわち不安だ。そのままつなげても夜が来て眠ればそのまま死ぬという言葉の組み合わせが出来るほどまっすぐに死に向かっていく言葉だ。本当に不安であるときに笑うしかないという状況は聞いたことはあるものの見たことがないんだけどそれがあるとして、さあアレは笑っているかといえば、まあフザケテいますよねということになるんであってそれはどこだいと言われれば急に肉体を離れて現れるギターや性交のくだりなんかはマア眠りに対するフザケと見ていいだろう。このへんめんどくさいので再び言うが彼は彼から発露してきたものに対しては手近な部分を引っ掴んで格闘しているのであり、その格闘でもって次の段階の眠りにはフザケテみせているのだと。では結局眠ってしまえばいいとはなんだ? 詩のつまるところがすべて題意題意題意というわけでもないだろうけど、読者がもし手っ取り早い結論を得たいとするならばやはり「結局のところ」を提示するのが一番だ。まあだからめんどくさい詩人はここだけ読んでもらってお帰りになってもらっても結構なので、えー、こうだ。
眠ってしまえばいいとはすなわち諦めである。
に、尽きる。ごらんよ歯を食いしばっているんだ、だから諦めだよとも言うことが出来るし、あれこれと考えてはいながらも念じるように眠ってしまえばいいと繰り返していることからもうかがうことが出来る。諦めだ。それでも諦めきれないのが人間デスヨと言いたいのかもしれないけどその辺を追求していくときりがないのでやめておく。とまあここまで内部に目を向けてきたが、これが読者と共感を結ぶかというと疑問だが、どのレベルまで諦められているのかが分からないのでそのへんは言及できないが、とはいえこの自虐コミュニティーのようなものを形成する動きに至っては、余計な言葉などは何も結ばないということを顧みるのであっても、やっぱり眠りというものは詩における扱いやすいテーマであるからして、火気厳禁ぐらいには扱いを注意してもいいものでございますよね。なにを偉そうに、とばかりに語るおれがいるんで皆様不快であらせられると思う、小生思うでござるけど、ともかく解せないのは後半部分のリズムやなんやらのしっちゃかめっちゃかな具合が本当によろしくない。一連目のあの珠玉とも言えるリズム感をなぜに放棄なされるのか。そして後半に進むにしたがってアレレ? という疑問、包み隠さず言えば発展的に押し上げようとしている箇所で失敗している、つまりサビにいく部分で失敗しているんじゃないのかという疑惑、そして大いなる空行、それはあたかも谷のようであるのでワーと落ちていく人々の姿が見えるようだワハハハハハ。何ってあの空行のでかさはどうみてもごまかしにしか見えないのが残念だ。全部二三行の空行である詩とかにはことさら慎重な空行ソムリエでありたいおれなので注文が厳しいというわけでもない。あまりに大きな空行は読者の中に育んできた詩情を薄れさせ、あるいは切り、あるいはまったく消滅させてしまう。この詩の話に戻せば、あの回帰に至る方法がすべてあの空行に省略されているので、空行に注意を払わない読者なんかは「空行になんとはなしにある雰囲気」で詩っぽいイメージを掴まされているようだが一体彼らは空気以外のなにものでもないものを掴んで浮かれているだけではないのか。手を広げてみたことがあるのか。読後の反覆は? などと余計な心配までしてしまうのは悪意でなくてまったく純粋な疑問である、というのもすべて、あの一連目が素晴らしいためであり、それを何故なぜナゼ物理的な方法でもってまで薄めてしまう必要があるのかという疑問。あの空行、あの大きな谷、谷底にはきっと素晴らしい表現が手も付けずに捨ててあるんであって、おれがそれを盗みにいくので誰も手をつけるな。