詩にまつわる備忘録(自戒のためのメモ)
こん

はじめに
感動する詩論を読むと、いいなあ、自分も書いてみたいなあと思うのだけど、いかんせん筆力がなくまた、長い文章を書くのにものすごく時間が掛かるタイプなのでメモの形でアップします。(ずっとメモかもしれないけど。。)まあ、これでもおそろしく時間が掛かっています。また、あえて言うまでもないことですが自分に向けたもの、です。
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詩とは主にセルフの調律である、が現在一番しっくりする。広義のセルフヒーリング・自己治癒、または調整である。ただ、治癒という言葉は語弊があるかもしれない。治すべきところとしてではなく、その部分の存在を見つける微細な方法、といったほうがいいかもしれない。だから、詩は神聖、と言ってもいいし、排泄物、と言ってもいいし娯楽でも暇つぶしでも名前はどうでもいいと思っている。調律の方向に向うなら全て詩と考える。

けれども「本当に」調律できたかどうか、は難しい。他人に伝えるために 書く詩よりも難しい。なぜなら意識的に吐き出しただけでは表層的には気が済んでも深層では安易に名前が与えられたばかりに尚更隠れる場合があるからだと思う。(無論、ただ吐き出しただけで楽になる場合を根本として大切にしなければいけない)逆に、自分がその詩で本当に調律されたなら、それが結果的に他人に多少なりとも伝わるかも、と思うし、ほんとにすごいものは周囲や世界まで調律するんだろうなと思っている。(詩に限らずだけど)また、調律に向わせるもの、は魂とか霊性とか言われるものだと思う。それは過去の偉大な詩人の啓示的な作品群に含まれているものでもあるが同様に現在の日々の些末な感情、出来事、孤独なつぶやきにも宿っている。宿っていると言うか、むしろそのなか(ポエジーでも、ドリーミングでも言い方はいろいろ)に私たちが 住んでいる。霊性のなかに心があり、心のなかに身体があるから。(ただし、これは身体を下位に置いたという意味ではない。)そのような考えでいけ ばなにも詩じゃなくてもいい。でも私は詩が好きだから、詩。(でも最近、詩を読み書きするよりその周辺を考えている方が楽しいんだけど)

※ポエジーは認識、救済、力、放棄である。世界を変えうる作用としての詩的行為は、本質的に革命的なものであり、また、精神的運動なるがゆえに内的解放の一方法でもある。
(オクタビオ・パス「弓と竪琴」牛島信明訳・ちくま学芸文庫より)


作品には(読書行為にも)階層がある。それは優劣ではなく単に深度、または粒子の大きさ?の違いである。次の階層は前の階層を含む。ので、書ける(読める)範囲が広がってゆく。無自覚な場合、前段階を見下したり、次段階に反発したりする。
※ここで階層を述べるのに「作者」「読者」と言ってないことをあえて強調します。


深く書ける場合、たいがい浅くも書ける。(深い=難しい・重い、ではなく言葉にらないことを詩世界で表現できる能力の深さこと。真に深い詩は召喚する)天才クラスだと自由自在になる。市場ニーズに合わせても言葉が降りてくる・・ようになると伝えるように深遠を書けるのだと思う。私のような凡人はまずは深く書けるよう、自分のなかを探索することである。)


深く書けるのは年齢や人間性ではない。関連性はそこそこあるかもしれないが。


感情吐露や日記のようなつぶやきも感情に同一化していなければ詩と言える。が、同一化しているかどうかは作者自身気づかないこともある。(意味は同じで逆の言い方をする時もある。その感情をペルソナとした場合、セルフに同一化できていない、というような)


作者が楽しいのなら(逆に苦しくても必要なら)言葉遊びや色々な手法ももちろん詩である。ただし手法に同一化してしまう場合もある。


浅いもの、同一化したものは批評には向かない。というか難しい。(再三言うようにそういう詩が悪いのではない。そのことへの非難はカテゴリーエラー(byケン・ウイルバー)である。また、深いものやはからずも権威のついてしまったものを理解できないからといって引き摺り下ろす行為も還元主義であり同様にカテゴリーエラーである。


作品は書き上げた時、発表した時、感想・批評を受けた時、その返答をした時でそれぞれ色合い・意味が変わる。(作者・読者双方にとって)よって、書かれた時点でそれは存在している。むしろ書かれる前から書かれようとして存在している。(だんだん意味不明だな・・・)


同一化した作品はその感情そのもの(または手法そのもの)が作者になっているので(感想にも)注意が必要


作品も「それ自体」が人格(作品格)を持っているので人間に対するのと同じ配慮(誹謗中傷をしない)が必要。もちろん建設的で真摯なやりとりなら意義がある。また、「どうしても」強く言いたいこと・厳しい批評があるならば作者、評者共に、時間的精神的余裕があるなら徹底的に話し合うことが結果的に建設的と思う。その時に大切なのは、作者も大いに反論(ただの返答でも)することである。双方向でないと禍根を残す場合がある。

※「対立するもの」の合一は、人間存在が本来的に内に秘めている「自己」と「他者」の合一に連なっているのである(前掲「弓と竪琴」訳者後書きより)


作品を読む時は全体的(ホリスティック)に読む。自分の能力を超えようとして出来る限り深読みする。作者の意図は考慮しなくてよい。(作者の意図を超えたところに本質があるはずだから。もちろん、作者と読者の捉える本質は違うかもしれない、ただ回路によって重なる部分がある、はず)


現在の自分の階層の中で成長欲求を持ちながら言葉に向き合うこと。(進化とか成長とか変容とかっていう言葉に過剰反応される場合もあるんだけど、あくまでも自分の場合です。ここはいろんな心理学のつまみぐいから自分で納得した部分なので)

無論、普段は軽く読んで軽く書くことを含めて、詩を楽しむこと。1000のつぶやきの後でひとつの(自分を)変容する詩が書けると思うから。



○参考文献等書いた方がいいのだろうか?けどあまりにも混ざり合って(^^;)
なので著者名を思い出す度記入していきます。
A・ミンデル、K・ウイルバー、イエイツ、ユング、シュタイナー、ドゥルーズ、オクタビオ・パス、菅原浩、天外伺朗、他エトセトラ解説本多数

2004年1月記(時々修正するかもしれません)


散文(批評随筆小説等) 詩にまつわる備忘録(自戒のためのメモ) Copyright こん 2004-01-17 12:42:01
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