見えない(たもつ様作)〜公正とは何か〜
ポロリ

 私事ながら、私の詩を評価する方法には3種類ある。(どうでもいいだろうが、一応入りなので読んでいただきたい。すっ飛ばしても影響は無いが。すっ飛ばしたい方は、「見えない」から読んでいただければよろしかろう。高橋源一郎の「文学王」でも見て馬鹿笑いするほうが合理的だろう。もうインテリ源ちゃんと言われる歳でもなさそうね。どうでもいいか。語尾バラバラだ。バラって書ける?)
 1つ目は、テーゼを評価する方法である。テーゼの内容自体を評価したり、テーゼを強化、補充、補完する表現方法を評価するものである。私の評価した例としては、「アンパンマンのマーチ」である。(こっそり宣伝。なんていうか、みんなの好きなアンパンマンで釣った割には反応が薄いよね。もうちょっとガツンと逝くべきだっただろうか。でもあんまり強烈に掘り返しちゃうと嫌悪感が出ちゃうと思うんだよね。ネットって結構道義的な規制が掛かっちゃうよね。むしろ無視すべきなんだろうけど。ああ、人の子であることが憎い。ちなみに結構古めの評価方法なんじゃなかろうか。)
 2つ目は、思考の過程を評価する方法である。文の繋がりや、比喩から、思考の飛躍を評価するものである。私の評価した例としては、「リルケたまねぎ〜リルケによせて〜」がある。(こっそり宣伝。なんていうか、この方法で、現代詩を考えると混乱するのだけれど、でもスタンダードな方法なのではなかろうか。アリストテレスから始まる詩の権威化はこの方法で図られたのではないだろうかと思っているんだけど、実際どうかは知らない。日本では詩人は小説家に劣る存在として評価されているけれど、西欧で小説家より詩人が権威を持っていた時代は今も続いているのだろうか。金銭的に考えたらやっぱ小説でしょうなぁ。ゲームに対抗しないといけないからね。詩でも勝てそうなもんだけど、その意味で対抗している詩って精神病系だよね。リスカとか、ヒキコモリとか。なんか未来が無いような雰囲気を醸し出してるよね。醸成されちゃって澱とかでてきそう。デキャンタ持ってる?)
 3つ目は、他人の評価方法を使うものである。今回は、村上春樹「海辺のカフカ」から拝借させていただいている。(ん〜。なんて権威主義。そんな自分にふぉーりんらぶ。)フェアユースの範囲ということで、どういった評価方法かご説明しよう。(っていうか、文章をマンマ載せるわけですが、片野様、そんなに怒っちゃイヤン。気色の悪さを前面に押し出したところで、蘇るがよい村上春樹!!!ってまだ死んでないか?おぃ!マジで怒られるって。ちなみに「海辺のカフカ」に出てくる「海辺のカフカ」っていう詩はショボイよね?だよね?あってるよね?)

___引用___
「詩と抽象性は古来、切り離すことの出来ないものだ。海賊とラム酒のように」
「――中略――抽象性と意味性とは別のものだからね。彼女はおそらく意味や論理といった冗長な手続きをパスして、そこにあるべき正しい言葉を手に入れることができたんだ。宙を飛んでいる蝶々の羽を優しくつまんで捕まえるみたいに、夢の中で言葉をとらえるんだ。芸術家とは、冗長を回避する資格を持つ人々のことだ。」(私は芸術家にはなれないらしい。なるほど納得。)
「優れた詩というのは、多かれ少なかれそういうものだからね。もしそこにある言葉が、読者との間に予言的なトンネルを見つけられなかったなら、それは詩としての機能を果たしていないことになる。」(ここの点を今回使わせていただく)
「でもそういうふりをしているだけの詩もたくさんある」と僕は言う。
「そういうふりをするのは、こつさえ飲み込んでしまえば難しいことじゃないからね。それらしく象徴的な言葉を使えば、いちおう詩のように見える。」
___引用終わり___
()内はポロリの補足あるいは蛇足

 そんなわけで、「読者との間に予言的なトンネル」のある詩を高く評価するという視点から考えていきたい。なので皆さんにそのようにたもつ様の「見えない」を読んでいただこう。(どうぞ。…たぶん読んでも言ってる意味がよくわからんという人もいるだろう。そういう人は私の文章を読んでから「見えない」を読んでいただいても良いだろう。その辺はご自由に。なにせ自由至上主義者。えへん)

見えない
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=2844&from=listbyname.php%3Fencnm%3D%25A4%25BF%25A4%25E2%25A4%25C4

 「今日は見えないゴミの日だ」ではじまり、「最近、空から見えないものが落ちてくる」と「見えないゴミ」(以下「ゴミ」と表記)の軌跡が語られる。この詩には、「ゴミ」がどこから来るのか正確には語られていない。なので、そこに私達の推測が働く余地が生まれる。
 「ゴミ」の処分場がいっぱいになったから、あふれて空から降ってくるわけだが、あふれる前も「ゴミ」はあったわけである。ということは、主人公や田中さんも「ゴミ」を作っていたかもしれないのである。また、「ゴミ」はその辺の草むらで自生しているかもしれないし、卵を産み付けているかもしれないし、分裂したり、寄生したりしているかもしれない。
 また、「ゴミ」がなにを意味するかもブランクになっている。それは、「ゴミ」から連想されることなので、悲しみ、憎しみ、怒り、腐敗、戦争など、負のイメージを伴ったものが何でも当て込まれうる。ときには、家族愛と仕事でどちらを切り捨てるか悩んでいる人には「ゴミ」=「家族愛」というもっともかけ離れた推測をすることも可能である。
 そして、そのような推測は、読者の経験に基づき、読者に自身の過去を掘り起こさせ、さらに未来を予感させる。
 悲しみを道端で拾い、この詩を読んで、悲しみを連想した人は、また明日も道端で悲しみを拾うことを連想するかもしれない。戦争に怒りを覚え、この詩を読んで、戦争の惨禍を連想した人は、明日の新聞記事を連想するかもしれない。
 あらゆる負の産物をあらゆる機会にあらゆる方法で読者が引き受けるという連想を、この詩はさせる。つまり、この詩は、「読者との間に予言的なトンネル」を内包した詩そのものなのである。しかも、他に比してこの詩が優越する点は、どのような心理状態の者にでも、あらゆる角度で、連想させることができるという点にある。「ゴミ」はあらゆるゴミを取り込みうるのである。
 村上春樹の視点(というか海辺のカフカの抜粋)からすると、この詩は比類なき唄と呼ぶべきだろう。

 さて、他人のフンドシで相撲をとった後ではあるが、私の視点をとってもこの詩は高く評価される。
 この詩が語るのは、「ゴミ」はそこここで生まれそして天から降ってくる、ということだけである。「だけ」なのがポイント高いのである。そこにはなんの善悪の評価も無い。「ゴミ」がなんであるかを表明していない点で、読者の価値基準に接触することを回避している。さらに、この詩は、読者に、読者自身の価値基準と価値判断を掘り起こさせて、改めてそれを見つめ直させるという機能を持つ。かくして、読者はかつて判断しそれ以降固定していたであろう、価値基準を設定しなおす契機を与えられるのである。しかも、その変動は自由である。特定の意図に沿って変動することは無い。
 公正な立場で、公正な方法によって、個人の価値を、その個人自身によって問い直させるとは、美味しいとこ取りし過ぎでは無いだろうか。


散文(批評随筆小説等) 見えない(たもつ様作)〜公正とは何か〜 Copyright ポロリ 2004-01-15 02:14:27
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