人としての生き方
奥津強

 理論は、陳腐なものだ。まれに文章を書いている時、そう思う。
「本物の親友に言葉はいらない」と友部正人が語ったというが、実際、触れ合う事によって、人は触発されていく、そんな気がする。
 10の読書より、更生した元ヤンの方が、はるかに物事を語れるのではないかと思うのだが、それは異論の別れる所であろう。だが、実践という意味で、私は後者を取る。
 両方は合わないような気がしてならない。知識と行動を同一にとるには、相当の感情の高尚さ、とでもいうべきものが必要なのではないのか、と思う。

 さて、理論は〜と語ったが、感情が全てをつかさどるのであり、感情が、そもそもの人の起源である。感情同士の触れ合いが人の最も行き着くべきところである。そう思う。
 ならば、感情の趣くままに、となるのだが、ペクトルを取るものがある。理性である。しかし、それすらも、陳腐な気がする。
 人は本来、悪なのだろうか。善なのだろうか。そう考えた時、口伝という言葉が、ふと閃いた。口から伝わる言葉は、会話であり、感情の流れがそこにはある。読書は人と人の触れ合いがない・・・いやないのではないのだろうが、沈黙と知識の融合とでもいうものが存在するだけであって、人は人と交わっていく事が肝心なのではないのだろうか。

 悪や善などないような気がするのだ。人の持つ気持ちは人ではないか。言うなら、善じゃない、悪じゃない、「人」を人は行動するような気がする。善なり悪なり神なりは、知識人の言葉遊びに繋がり、元来、人は人の行動でよい、そんな気がする。

 しかし、生まれつきという壁があるらしい。私は、余り感じないが、人によっては、両親の影響で「これ以上は進めない」となるらしい。では、両親が全てか?

「東大に落ちたのは、ママが勉強しろといったからだ」と、昔、ニュースで取り上げられていた気がする。
 そう考えると、あながち両親の影響も少なからずある気もするが、やはり本来、性格というものは、「人」のような気がしてならない。
 人は人としての業務があるだろう。しかし、そうなると感情とは何に属するのだろう。

 出来れば、私もこの中学生のような問答には飽き飽きしているのだ。誰か一人でも、私に救済の言葉、つまり答えをくれ。

 最後に。神や知識を私は否定しているわけではない。しかし、ヌーディストや、ゲイ、レズの表明のように、人は人なのではないのか。そう思うだけである。

「戒律を作れば、反発が起き、欲求のままに生きれば、堕落が来る」。どちらかでもないのか? 


散文(批評随筆小説等) 人としての生き方 Copyright 奥津強 2005-11-02 20:06:54
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