珈琲屋のはなし
たちばなまこと

洋裁系専門学校に入学し札幌に住み始めて1年、大学生の友人に行きつけの珈琲屋があるから一緒に行こうと誘われた。思えばあれが珈琲屋マジックにかかった記念すべき日だ。

授業を早く抜け出しては珈琲、バイト前には珈琲、買い物の合間には珈琲、散歩がてらに遠出しては珈琲、仕事の飲み会の二次会組から逃げては珈琲。

店長のおすすめフレンチブレンドが好きだった。最も、珈琲になれていなかった頃はマイルドブレンドを飲んでいた。飲みやすくって。長いこと通うと、ハンドピックの豆で私ひとりの為だけにおとしてくれるようになった。
ネルとポットを手に持ってお湯を点滴する。じわじわと豆が生き物のようにふくらむ。命を吹き込まれるひとときだ。お湯がひと通り行き渡ると20秒蒸らす。そしてまた点滴が始まる。計量カップにポタポタとしたたるセピア色。彼は豆を褒めるのが上手で、豆はますます香りを放出して店内の人々を魅了する。中心から外に向かって渦を描いてまた中心に戻る細い湯の線。豆のドームはネルからはみ出して盛り上がり、マフィンのようになる。豆の余計な癖を出さないようにタイミング良くネルは外される。液体は一度鍋に入れて温め直す。「今日のフレンチは最高だよ。」って表面が豆の油分で黒光りした液体が器の中ゆらゆら揺れながら私の前に運ばれるる。初めは砂糖もミルクも入れない。添えられたスプーンで表面を掬って落とすと、油分が琥珀の宝石みたいにちかちか散っては光る。おいしい珈琲の証拠なのだ。珈琲の父親である彼は見ている。一口含んで口の中で転がすと鼻に抜けてゆくセピア。「おいしい。」言葉はそれだけでいい。「表情でおいしさはわかるのさ。」と言う店長。ウェッジウッドのカップを少し傾けて戻すと内側にセピアの名残がゆるやかにすべる。良い磁器だからこうなると、教えてもらった。そうして一口目を喉に流した後、でかいスピーカーから聞こえる音に再び耳を傾ける。時間、天気、店長の気分、客層、店の来客数で選曲が変わる。モダンジャズ、ロック、ブルース、カントリー、アイリッシュ…いくつここでアーティストを教えてもらっただろう。
動物性脂肪の余計な癖のないミルクは最後の一口にたっぷり注ぐ。ミルクが珈琲のまろやかさを引き立ててくれるのだ。

こちらに引っ越してからはまだ、恋人のような珈琲屋には出会えない。ここはどうだろう、と入った珈琲屋をなめ回すように見渡す。入り口のマットはダスキン?つまんない色。電気スタンドにほんのりほこり。ドライフラワーにもほこり。テーブルも、その置かれている間隔も、狭くて椅子をひくと後ろの人にぶつかってしまう。メーカーのロゴ入りスティックシュガーとポーションミルク。どうせ使わないけれど、入れた後にはゴミがテーブルに残って見苦しくなる。ステンレスのトレーに載ったカップはどれも同じ。取っての付け根に茶色の浸み。スプーンの意匠が変に古くって、店に合っていない。時々ミルクポットの店があるけれど、後で入れようと思ったのに黙って下げられ、他の客に回されたりした。私は煙草を吸わないけれど、灰皿の置き方一つで店の知性が見える。何処にあるかわからないスピーカーからは嫌いじゃないけれどスタンダードジャズやクラッシック。誰が入ってきても選曲は変わらない。
カウンターの向こうに伝票やファイルが見える。裏側など客に見せてはいけない。せっかくの現実逃避が台無しだ。本棚には生活紙と週刊誌と新聞しかない。手ぶらで来ると非常に困る。仕方がないから今時の若者らしく携帯と対話したくなる。サイドメニューにパフェやパスタ。珈琲を淹れる時間が短縮されてしまうような気がする。どうせデミタス以外は淹れ置きだ。店に珈琲とニンニクの匂いが漂うと何をしに来たっけな、と首をかしげてしまう。

私の住むこの街には確かにあまり学生も居ないし、アーティストも居ないし、いかしたうさんくさい中高年も見かけない。足を伸ばして国立や吉祥寺なんかに行けばどこかいい珈琲屋が見つかるだろうが、そこまでして…とも思う。もっと気軽に日常の現実逃避がしたいのに。渋谷や新宿や銀座なんかのカフェにも入ったけれど、ゆっくりできやしない。かろうじて代官山ならいいかな。でも雰囲気ばっかり良くっても珈琲自体がおいしいところは見つけていない。いや、この街も探せば見つかるかもしれない。


散文(批評随筆小説等) 珈琲屋のはなし Copyright たちばなまこと 2005-10-24 14:01:49
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