土佐日記からおんなへ
石川和広
驚くべきことに土佐日記はおとこがおんなになっておとこのことばを使うしか日常の文学が書けなかったという困難を表している。日本語を使うときそんな歴史があったことを考えるといろんなことがみえてきそうだ。おとこもおんなもこの国の言葉の中ではいろんな困難があって異議があるかもしれないけどそういうややこしさをおとこもおんなもトランスジェンダーも分け持っている。
おんなを主題にいくつか詩を書いたがなかなかピンと来ない。
おんなと言うてもジェンダーというて社会的な性差とか生物学的な女性とか様々な概念があるが、ただ僕の頭に浮かぶ想念のおんなを書きたいのだ。
差別ととられると怖いからこう書いておく。なぜか詩の世界を眺めても、おとことおんなのいい感じの対話は見られにくい。短歌の世界なら恋歌という形があるが、詩の場合、おとことおんなが対等に渡り合う文体はまだ出来ていないのではないだろうか。
これも異論があると思うし論じられる人は論じていただきたい。
世代の問題もあるけど、谷川俊太郎でさえおんなを歌うとき、不遇の影が差してくる。
そこが谷川でもあるけど、谷川は、いろんな人に読まれる書き手だから根は深いのではないだろうか?詩の言葉で「おんなに」語りかけながら、その向こうに暗い影が差している。
僕は性のことはあまり語らないけど、そして現在不能なので困っているのだけど、三年前の同棲崩壊から、僕はおんなに関して多大なややこしさをもっているのではないかと最近思い始めている。
そこんところをチャレンジしていかないと今後また大変な傷をつけて、あるいはついてしまうのではないかと思う。
だから女性読者をひかすかもしれないが、たぶんひかしてしまった方もいるだろうけど、自分の暗い無意識というか対おんな関係の詩をかく、あるいは書いたことをご理解いただきたい。
この年三十をいくつか過ぎた辺りで、これまで詩作で意識してなかった性が出てきた。
これは自分が男目線ばかりで書いてきた反省というよりも、案外女性にもわかってもらってるなという手応えのようなものがあった。別にもてるために詩を書いてきたわけでもないけど(そういう人もいると思うけど)。というか文学は中性であり、中性におさまりきらないものをはらみながら展開されていく。そういう人間的な営みだろう。
僕は女性に関して人並みの失敗はしてきたつもりだが、そこには、女性という横の関係でおさまりきらない、何か本質的に自分を成り立たせているもの、自分のなかの父親とか母親がいて、そういうのにうまくなじめなくて(実際母の神経質を僕も受け継いでいると思う。過度に神経質だと視野が狭くなってしまう)俯瞰しそうになったり、過度に地ベタを這ったりしてしまうのだ。なかなか難しいんだけど生きている苦労の大半はそこから来るのではないかと思う。見捨てられないかとか評価を気にしてしまう自分がいたりとか。
こうして書いている間にも同居人がイライラしている。書くという作業は一人のものに見えて、無限の他者との対話かなと思う。そこで、一緒にいたいという人と時間がかぶったら大変だ。
筆を置いた方が良さそうだ。