ホステスの母
日雇いくん◆hiyatQ6h0c


 小学校の、ニ、三年位の頃。どっちだったかすっかり忘れてしまったが、ある時担任の先生から、
「お母さん何の仕事しているの」
と言うような質問をされた。僕は当時から視力が悪く一番前の席順が定位置だったので、彼も何の気なしにそんな質問をしてきたのだろう。両親が共働きという事もいつのまにか話していたらしい。
「キャバレーのホステス」
そう、子供だから正直に答えると、とたんに彼は困惑した表情になって、それきり後は、それを話題にする事はなかった。

 その当時僕の家は、細かい事情を両親からよく聞いていないから記憶があやふやなのだが、とにかく借金を背負っていて、よく色々な人が催促に来ていた。たまたま僕が対応した時は決まって、
「今、お父さんもお母さんもいないんですけど」
と言うのが常だった。別に言い訳じゃなく、いつも何故かそういう時に、本当にいないのだ。そして必ず、来た人に託けを頼まれてしまうのだった。僕は、例えば忘れん坊クラス1になるくらいに、あらゆるモノや事柄を忘れてしまう子供だったので、そういう託けを聞いた事すら、あらかじめ約束されたかの如くに、当然さっぱりと忘れるのだった。あとでしまったと思い、かなり時間が経ってから、両親にその事を言うのが常だったが、しかし何故それで怒られた記憶はまるでない。多少はそんな事もあったのかも知れないが、とにかく忘れる事にかけては周りからも定評のあった僕だから、そんな事も忘れているのかも知れない。
 普通一般家庭での借金と言えば、男親がギャンブルか女遊びでこしらえるとか、事業で失敗したとかなのだろうけど、家での借金はすべて母が作ってくるものだった。この時の借金を返し終わった数年後に、母が小料理屋を開くのにまた大きく借りてしまった事があるので、おそらくその時も、何かの事業を起こして失敗したのだろうと思う。母は何故かそういう自分の居場所というか、自分の城みたいなものを家庭外に持ちたかったようなのだが、家計簿をつけているのも見た事がないくらいの、ドンブリ勘定の見本みたいな金銭感覚の持ち主だったので、失敗するのも当たり前の事だったのだ。当然簿記も知らず、小料理屋をしていた時も客の言うままにツケを許していた。よくそれについて言い訳もしていた。
 そして酒も好きだった。訳のわからない事を叫びながら家に帰ってくるくらいになるまでよく飲んでいた。いわゆる酒乱なのだ。介抱する僕にとってはとても迷惑な事だった。時には小便まで漏らして帰ってきた。酒くさい小便の匂いに僕まで吐いてしまいそうになった。そんな調子なので、いつのまにか僕の知らないうちに、自然と店は畳まれていた。母はその後よほど懲りたらしく、病院の付き添い婦に職を見つけると、以後体の不調が原因で辞職するまで十数年そこで働き続けることになった。
 そういう母の失敗の、後始末はどうするのかと言えば、全て父がその尻拭いをするのだった。サラリーマンの父は、母とは反対に細かい性格で、お金の計算もさることながら、例えばある時、家族の誰かが夜中にトイレに起きると次の朝に、「お前、昨日夜中の何時何分にトイレに行っただろう」等と必ず言ったりした。父以外の僕ら家族は、微かな物音ですぐに目を覚ます父を「忍者」と呼んで笑ったりしたのだった。
 そしてまたある時、僕には姉がいるのだが、その姉が、当時流行っていたディスコに通うために、父の財布から金を盗んでそのまま遊びに行った事がある。バツの悪い事に、僕もその時トイレに起きてしまい、うっかりその現場を見てしまった。見られた姉は、驚いた顔をしながらも僕のほうを向いて、口に人差し指を当てて合図をした。姉は気性が荒く、逆らうと鼻血が出るほど殴ってくるので、僕は当然黙ってそのまま布団に戻り、寝る事にしたのだった。
 しかし、朝になると細かく財布のチェックをする父にすぐ分かってしまったらしく、翌朝僕が起きてみると姉が居間で蹴飛ばされているのが見えた。姉が寝転びながら、所謂我が家でネコキックと呼んでいた、つまりネコの様に体を縮めながら折り曲げていた足で攻撃を防御するやり方で、父の力強く繰り出す蹴りに、ワケのわからない事を喚きながら必死に応戦していた。何故か今でも僕の頭には、その時の映像が、割に強く残っている。それにしても、姉がバレたのに、僕が何も怒られなかったのはどうしてなのかと、今になって不思議に思うものだが。
 そんな風に神経の細かい人だったので、キッチリと父は、母の杜撰さをカバーしていたのだった。例えば当時の家は風呂無しのアパートだったので、借金時には倹約のために、なかなか銭湯に行かせてもらえなかったりしていた。僕はバカ正直だったから、学校でその事をうっかり話してしまい、不潔男呼ばわりされてちょっとしたイジメに発展したりした。どんな風にイジメられたかはあまり覚えていない。着ていく服もあまり買ってもらえなかったし、母が昼間に寝ていて洗濯もあまりしてもらえなかったのもあって、いつも同じ服を着ていたというのもあったから、そういう方向に行ったのかも知れない。それでもまったく友達がいないと言う事はなかったので、それなりに楽しかった記憶の方が強い。
 
 そんな訳で、一度目の借金返済の足しにと言うことなのだと思うが、やむなくホステス勤めをしていた母だった。
 母がキャバレーに勤めていた時の事で思い出されるのは、毎月、給食費などの学校の費用を、夜は勤めでいないものだから、仕方なく朝に要求する時の事だ。僕が費用をねだると、母は寝床で「ウン……ウン……」というものだから、了解を得たとばかりに、母のカバンから費用を取って学校に行き、そして課業が終わった後、家に帰ると決まって怒られていたのだった。「朝は寝てるんだから、なんでもウンウン言っちゃうんだよ! 朝にそんな事言うな!」と必ず、決まり文句を聞かされたものだ。
 父に出してもらえばいいのだが、子供だからかその事を言っても誤魔化されてしまって費用を出してくれないので、仕方がなかったのだった。もちろん怒られると分かってはいたが、出さないと先生にも怒られるので、僕はいつも、朝眠っている時を狙ってそれを繰り返した。例え母に怒られても、払わなければならないのは当人もわかっていたので、そんなに強く言えない事も知っていたのだ。
 そんなわずかな給食費もケチるくらい、僕の家は逼迫していた。要するにそれだけの事だったのだ。
 大人になっても、たまにその事を思い返す。その時担任の先生が僕の言う事に対して、そんな風に口をつぐんだのが、今でも気持ちの良くない、どんよりと嫌な感じで心の中に残っている。僕はそういう時、まあ所詮はセンセイって程度の人なんだろうな、と思い直し、わずかな怒りを納めている。母は、確かにどうにもならない人ではあるのだが、それなりに真面目に一生懸命生きていたのだと思うから、つい怒ってしまうのだった。その生き様自体は別に恥ではないとも、強く思う。もちろん、決して威張って言える事ではないのだが。
 それともうひとつ、不思議に思う事がある。母は、実はとても不細工で、女としての器量はどうにもならないと、兄弟の意見が一致する程なのだが、その母が何故、よりにもよってホステスなんかやったのだろうか、と。
 まあそんな事くらいは、母に聞いてみればいいのかも知れない。もっとも、とても怖くて、僕からは聞けないのだが。




散文(批評随筆小説等) ホステスの母 Copyright 日雇いくん◆hiyatQ6h0c 2005-10-10 04:21:43
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