霧の様な死あるいはナルシシズムについて/立原道造を読む
渡邉建志

僕に露天風呂の中で本を読むという楽しみを教えてくれたのは友人Tだった。Tが言うには、夜の鞍馬温泉は人が少なくて、本を読むのにもってこいだという。僕は鞍馬温泉には行かなかったが、さまざまな旅行先で本を携えて、露天風呂に入っては本を読んでいた。目が疲れると目をつぶった。のぼせてくると風呂から上がってまた本を読んだ。かつて知人と温泉に行ったとき、漱石の夢十夜を持って入り、朗読ごっこをしたことがある。湯気の中で幻想的な気分だった。家の風呂でもよく文庫本を持って入り、一時間ぐらいゆっくりと読む。そうしているうちにわかってきたのだが、風呂の中ではどうやら言語中枢というか論理回路というかが、緩んでくるようで、読書スピードが非常に遅い。こうなってくると、朗読スピードで楽しめる作品を風呂に自然に持ち込むようになってくる。たとえば詩である。一度露天風呂を貸しきって、風呂の中でゆるりと詩を朗読する会なんてやってみると素敵かもしれない、と思う。すると妄想が始まって、やっぱそれって、当然混浴だよね!混浴!混浴!とアドレナリン迸るのですが、、、だめですかねこれ(笑)

今日初めて友人Tお勧めの夜の鞍馬温泉に行ってきた。昼のうちに鞍馬から貴船に抜ける山道を歩いた。激しい道だった。あるいは僕の脚力が弱いだけかも知れぬ。それからぐるっと車道を歩いて帰ってきて、車を置いていた温泉に戻ってきたのは夜7時だった。露天風呂に入ると誰もいなかった。照明が暗かった。暗いじゃないかT!と思ったが、照明を背に風呂の中で本を読み始めると、だんだん目も慣れてきて、きもちよく読めた。時々人が入ってきて、しばらくして出て行った。熱くなって苦しくなってくると水風呂に入った。水風呂から上がると体がぽかぽかしてとても気持ちよかった。村上春樹がエッセイか対談かで、自分の作家・翻訳家活動を、雨降る露天風呂に喩えていたことを思い出した。露天風呂で熱くなってきたころに、外に出て雨に打たれる。寒くなってくると温泉に入る。同じように、長編を書き、次に翻訳をし、次にまた長編を(あるいは短編を)書く。翻訳活動や短編を通して、何かを得たり何かを肥しにして、次に長編に備えるというような話だったと思う。僕はその例え話がとても面白いと思ったのを覚えている。たしかにそうやって熱いのとつめたいのをいったりきたりしていると、いつまででも入っていられるのだ。作家活動も多分そうやって続けていくのだろう。話がずれたが、そうやって水風呂と温泉の間を行ったりきたりしながら読んでいたのが、今回の本題の立原道造詩集であった。温泉の中で朦朧とゆれる脳と体と心に、立原道造のやわらかいソネットが心地よかった。詩を読んで、気持ちよくなって、ときどき本を置いて風呂の木の縁に横になって夜空を見上げると、星がきれいだった。冷たくなる体に時々お湯をかけると気持ちよかった。これだけのセンチメンタリストを前にしているのだから、僕だってちょっとくらいこう、センチメンタルになったっていいじゃないかと思った、

僕は中学以来、立原の詩を読んでみたこともなかった。僕はあえて彼を避けてきたのかもしれない。夢見るようなあの口半開きの表情の写真を教科書に見て以来、、そして、死や結核というようなはかなさにあこがれる視線というものを自分のなかに自覚していたからこそ結核で美しく死んだ彼を避けていたのかもしれない。ある日、僕はいつもなら素通りする立原道造記念館の前に立ち、立原道造の生涯を書いた小さなパネルを眺めていた。24歳8ヶ月で詩人は死んだと書いてあった。ショックだった。僕よりも若くして、すでに立原は死んでいた(名声をすでに打ち立てて)。僕は立原よりすでに数ヶ月長生きしていた。僕はいったい何をしているんだろうと思った。ようやく、立原を読もう、と思った。読み終わったら、記念館に入ってみよう、と思った。それから池袋で立原詩集を買い、地元への電車の中で、ゆっくりと読み始めた。そして今日、鞍馬温泉のなかで読み終えたのだった。



■手製詩集「日曜日」より 唄 (全文)

裸の小鳥と月あかり
郵便切手とうろこ雲
引出しの中にかたつむり
影の上にはふうりんさう

太陽と彼の帆前船
黒ん坊と彼の洋燈
昔の絵の中に薔薇の花

 僕は ひとりで
 夜が ひろがる
 
 

やさしいことばで書いてあり、体言止でさまざまなグッズが並べられるのだが(引出しの中にかたつむり!)、そうやって並べられたグッズを眺める僕はひとりで、一方夜はひろがるのだという。

僕は ひとりで
夜が ひろがる

この部分がなんともたまらない。音の数合わせや「ひ」の頭韻といった音楽的要素が素敵だし、なにより、論理的につながらない「僕」と「夜」が並列に置かれている、その存在のあり方、みたいなのがすき。なにしろ、僕は一人で、ただでさえ孤独なのに、夜は広がっていくので、僕はその夜の中でもっと孤独になっていく。澄み渡るような孤独感だ。


■手製詩集「さふらん」より コップに一ぱいの海がある (全文)

コップに一ぱいの海がある
娘さんたちが 泳いでゐる
潮風だの 雲だの 扇子
驚くことは止ることである



■同詩集より 忘れてゐた (全文)

忘れてゐた
いろいろな単語
ホウレン草だのポンポンだの
思ひ出すと楽しくなる



この二編を「だの二編」と呼びたいのだが、、、実にこの「だの」がいい。

潮風だの 雲だの 扇子

なぜ扇子には「だの」がついていないのか?そもそも潮風、雲ときてなんで扇子なんか?とか、細かいところに突っ込みを入れたくなる。そうして突っ込みを入れていると、次に、

驚くことは止ることである

ときた。これはこっちが驚いてしまう。すばらしいですね。次の詩も、「だの」の後に驚くべき一行が来ます。

ホウレン草だのポンポンだの
思ひ出すと楽しくなる

何やってんだ道造!と言いたくなりますね。かわいいです。



■未刊詩集「田舎歌」より 一日は…… (部分)

?

揺られながら あかりが消えて行くと
鷗のように眼をさます
朝 真珠色の空気から
よい詩が生れる


?

ちつぽけな一日 失はれた子たち
あてなのない手紙 ひとりぼつちのマドリガル
虹にのぼれない海の鳥 消えた土曜日


?

しづかに靄がおりたといひ
眼を見あつてゐる――
花がにほつてゐるやうだ
時計がうたつてゐるやうだ

きつと誰かがかえつてくる
誰かが旅からかえつてくる


?

あかりを消してそつと眼をとぢてゐた
お聞き――
僕の身体の奥で羽ばたいてゐるものがゐた
或る夜 それは窓に月を目あてに
たうとう長い旅に出た……
いま羽ばたいてゐるのは
あれは あれはうそなのだよ

透明な朝の情景、というのはなんだか惹かれる主題で、この?なんかは、すごく雰囲気のある詩だと思う。なにしろ、「鷗のように眼をさます」という眼のさまし方なんて、たまりませんね。日常会話に使いたいぐらいです。「オレ、寝覚めがいいんだ。鷗のように眼をさますぜ。」とかさ。あと、?の、消えた土曜日は気になって仕方ないですね。こういう体言止で名詞を並べる作風が特徴的です。?は美しい詩ですね。彼の特徴である繰り返しが歌を歌っています。「花がにほつてゐるやうだ/時計がうたつてゐるやうだ」 の、時計が歌うというのに惹かれました。?の、「お聞き――」はたまらないですね。やさしく恋人に言い聞かすようなこの口調。そして最後の、「いま羽ばたいてゐるのは/あれは あれはうそなのだよ」 この文体は、ときに見かけて美しいなあ、と思うのですが、立原の時代ですでにやっているのか、と思った。この、語りかけるような文体。「あれは あれは」の間のスペースに注目しよう。二回言っている、口にしているということの強調。そして「うそなのだよ」にはドキッとします。このうそは、「鷽」なのでしょうけれど。。


■旅装 (部分)

僕は手帖をよみかへす またあたらしく忘れるために

わぁすてきだ。なんてセンチメンタルでナルシスティックでなんという言葉をこの詩人は書くのでしょうか。この一文は本当に素敵だ。



■みまかれる美しきひとに (部分)

――嘗てあなたのほほゑみは 僕のためにはなかった
――あなたの声は 僕のためにはひびかなかつた、

彼の愛の歌は、いったいどういう事情があったのか読者にわからなかったとしても、そう、内容がよくわからなくても、その甘い雰囲気に読者が自分の体験を重ねてしまうことで完成してしまうような気がする。



■優しき歌 (部分)

私は いま おまへを抱きながら
閉ぢられたおまへのうすい瞼に あの日を読むやうにおもひうかべる

眼は読むためにあるのだが、その眼が閉じられた場所(瞼)は、恋人によって逆に読まれる場所になっている。そのことの美しさ。「おまへ」の、瞼はうすく、とても美しいのだろう。



■卑怯の歌 (冒頭)

雨に濡れて立つてゐる あれは人だ
あれはかなしんでゐるが出たらめだ

かとおもうとこんな詩も書くのだ。すごい言葉のつながりですね二行目。こりゃ悲しんでいる側としてはやりきれないよね。出たらめって言われた日にゃね。こりゃおもしろい。今後使っていきたい。



■季節 (全文)

春になると
人はおもてに出る
荒れた芝生にまりを投げ
犬とあそぶ
いいにほひがする

夜になると
あかりをつけてはなしする
靄がおりたといひ
しづかに本を読むことがある

最終行に惹かれますね。そこまで前振りしといて、「本を読むことがある」ですか!と、ちょっと意表を突かれました。



■詩集「萱草に寄す」http://www.aozora.gr.jp/cards/000011/card889.html SONATINE No.2より 虹とひとと (全文)

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた あのとき
叢は露の雫にまだ濡れて 蜘蛛の念珠も光つてゐた
東の空には ゆるやかな虹がかかつてゐた
僕らはだまつて立つてゐた 黙つて!

ああ何もかもあのままだ おまへはそのとき
僕を見上げてゐた 僕には何もすることがなかつたから
(僕はおまへを愛してゐたのに)
(おまへは僕を愛してゐたのに)

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

おまへの睫毛にも ちひさな虹が憩んでゐることだらう
(しかしおまへはもう僕を愛してゐない
僕はおまへを愛してゐない)

またしても、何事が起こったのかよくわからない恋愛詩、第二聯の()は現代の私にはやりすぎの感があるけれど、最終聯の最終行が続いてくると、なんだかいい感じだ。長い繰り返し構造、その前にあるもうひとつの繰り返しがとても美しいと思う。

また風が吹いてゐる また雲がながれてゐる
明るい青い暑い空に 何のかはりもなかつたやうに
小鳥のうたがひびいてゐる 花のいろがにほつてゐる

風に雲に小鳥に花ってもう過剰なほどの立原ワールド。これを温泉で何も考えずぽけーと読んでいると、くらくらとのぼせてしまうこと必至です。



■詩集「優しき歌 一」http://www.aozora.gr.jp/cards/000011/card899.html 薊の花のすきな子に より  

二 虹の輪

あたたかい香りがみちて 空から
花を播き散らす少女の天使の掌が
雲のやうにやはらかに 覗いてゐた
おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

夜が来ても 小鳥がうたひ 朝が来れば
叢に露の雫が光つて見えた――真珠や
滑らかな小石や刃金の叢に ふたりは
やさしい樹木のやうに腕をからませ をののいてゐた

吹きすぎる風の ほほゑみに 撫でて行く
朝のしめつたその風の……さうして
一日が明けて行つた 暮れて行つた

おまへの瞳は僕の瞳をうつし そのなかに
もつと遠くの深い空や昼でも見える星のちらつきが
こころよく こよない調べを奏でくりかへしてゐた


三 窓下楽

昨夜は 夜更けて
歩いて 町をさまよつたが
ひとつの窓はとぢられて
あかりは僕からとほかつた

いいや! あかりは僕のそばにゐた
ひとつの窓はとぢられて
かすかな寝息が眠つてゐた
とほい やさしい唄のやう!

こつそりまねてその唄を僕はうたつた
それはたいへんまづかつた
昔の こはれた笛のやう!

僕はあわてて逃げて行つた
あれはたしかにわるかつた
あかりは消えた どこへやら?


四 薄明

音楽がよくきこえる
だれも聞いてゐないのに
ちひさきフーガが 花のあひだを
草の葉をあひだを 染めてながれる

窓をひらいて 窓にもたれればいい
土の上に影があるのを 眺めればいい
ああ 何もかも美しい! 私の身体の
外に 私を囲んで暖く香よくにほふひと

私は ささやく おまへにまた一度
――はかなさよ ああ このひとときとともにとどまれ
うつろふものよ 美しさとともに滅びゆけ!

やまない音楽のなかなのに
小鳥も果実も高い空で眠りに就き
影は長く 消えてしまふ――そして 別れる

二 虹の輪、について

阿呆な感想だけど、うわぁ、という感じです。たとえば

あたたかい香りがみちて 空から
花を播き散らす少女の天使の掌が
雲のやうにやはらかに 覗いてゐた
おまへは僕に凭れかかりうつとりとそれを眺めてゐた

この部分、もういっこいっこ抜き出して語ろうとすると全部になってしまうぐらい。無粋だけどやってみようかな。あたたかい香りがみちて、ですよ。あたたかい香り。うわあ。空から花を撒き散らす少女の天使ですよ、少女の天使。花を撒き散らすんですよ。その掌が「雲のやうにやはらかに」ですよ。めっちゃやわらかい掌なわけですよ。それが空から覗いてるんですよ、しかもそれを見ているのは「おまへ」と「僕」の恋人同士ですよ!しかも凭れあって「うつとり」してるんですよ。ヨン様ワールド!

そして、

ふたりは
やさしい樹木のやうに腕をからませ をののいてゐた

をののいているのです。読んでいるこちらの心も思わずをののいてしまいますよね。そうですよね。


三 窓下楽、について

いいや! あかりは僕のそばにゐた

いいや!とか一人で話している道造がかわいらしく、なんかちょっとシューベルトの歌曲みたいだ(勝手なイメージ。セレナーデだし、さ)。寝息が唄のよう、というのはいいのですが、その唄をどうやってまねてうたったのか、気になるところです。多分それはたいへん、まづいものなのでしょう。現代の普通の神経としては恥ずかしくてやってられないのですが、なにしろ1930年代の話ですし、そこにどっぷりとつかってみると、とても美しく読めてくるのでした。しかしこれを今書くことは至難の業だとも思います。


四 薄明、について

ああ 何もかも美しい! 私の身体の
外に 私を囲んで暖く香よくにほふひと

また、香りによって女性を描くのである。ちょっと、これはたまらなくキますね。どうしようどうしよう、と思います。女の子のどこがすきかというような話を男の子たちは一生懸命するわけですが、におい、と答える人は、ちょっとマニアックなんではないかと思われよう。しかし、僕はにおいだなあ、と思うのであって、、いや、僕のことなんてどうでもいいではないか。


■詩集「優しき歌 二」http://www.aozora.gr.jp/cards/000011/card899.html 一 爽やかな五月に(部分)

はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心を どこにおかう?

この、はじめての薔薇が ひらくやうに という比ゆがたまらんです。彼がよくつかう一文字スペースが、独得の漂う感じを出しているような気がします。


■同詩集より 八 午後に(全文)

さびしい足拍子を踏んで
山羊は しづかに 草を 食べてゐる
あの緑の食物は 私らのそれにまして
どんなにか 美しい食事だらう!

私の飢ゑは しかし あれに
たどりつくことは出来ない
私の心は もつとさびしく ふるへてゐる
私のおかした あやまちと いつはりのために

おだやかな獣の瞳に うつつた
空の色を 見るがいい!

〈私には 何が ある?
〈私には 何が ある?

ああ さびしい足拍子を踏んで
山羊は しづかに 草を 食べてゐる

これが一番好きです。一聯目の、さびしい足拍子を踏んで草を食む山羊の姿といったら!さびしい足拍子、ですよ。そして瞳には空・・・ちょっと倒れそうになりました。のぼせたのかもしれないけれど。


散文(批評随筆小説等) 霧の様な死あるいはナルシシズムについて/立原道造を読む Copyright 渡邉建志 2005-09-21 21:20:30
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