一滴の珈琲から
佐々宝砂

一杯の珈琲から恋が生まれることがあるなら
それが一杯の中将湯であったってかまわないに違いない
もちろん玄米茶でも胃カメラでもゾウリムシでも
かまわない筈なのだがなぜか恋の原因となるのは珈琲であり
あるいは紅茶であり酒であり涙であり吐瀉物であったりする
間違ってもメチルホスホン酸ジイソプロピルエステルではないのだ
理由は知らないが

それはさておきとある昼さがり
私はプシュウドモナス・デスモリチカに恋をした
石油を食うというバクテリアだかなんだかそういうものである
プシュウドモナス・デスモリチカは肉眼で観察できないので
ランデブーは顕微鏡を用いて実行された
厳密に言えばそれはランデブーではなく一方的な覗き見であったが
覗き見は常に愛の発露なのだからそれはそれでいいのである

しかし信頼おけるある人によれば
プシュウドモナス・デスモリチカはバクテリアではないと言う
そもそも「プシュウドモナス・デスモリチカ」という名称そのものが
一種の呪文であり顕微鏡下に見えるものはその呪文を唱えた結果生ずる
まやかしに過ぎないのだと言う

しかしその説はどうもすこしあやしい
その証拠にさっきから呪文のように
「プシュウドモナス・デスモリチカ」と唱え続けているのだけれど
顕微鏡下のまやかしは水分を失って動きをとめてしまった
それで私はそこに一滴の珈琲を垂らしてみる
曖昧で微細な粒のあいだ確かになにかが生まれている
それはメチルホスホン酸ジイソプロピルエステルじゃないらしいし
プシュウドモナス・デスモリチカでもないらしいし
そしてたぶん恋でもないのだ

そうなんでもかんでも恋に結びつけてはイケナイのである


自由詩 一滴の珈琲から Copyright 佐々宝砂 2003-12-28 07:27:41
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