ウミガメ
芳賀梨花子

昔の知り合いから電話があって
ちょっと帰ってこないかって
ナンデって聞いたら
亀ちゃんが死んだよって

久しぶりに海に下りた
なんにでもなれるような気がして
なんにもなれないジレンマ感じて
欲望することが
馬鹿げていると思っていた
あの頃と同じだった
お月さまはまん丸で
砂浜は湿ってる

亀ちゃんは、俗に言う
キチガイだった
差別用語でごめん
時々、お店の前のコカコーラのベンチに座って
緑亀のマリリンとお話してた
だから、彼は亀ちゃんと
いつのまにか
みんなに呼ばるようになったらしい
年は、もう三十は当に越えているだろう
すごく才能のあるピアニストだったらしいとか
一号うん十万円もするような画家だったらしいとか
精神病院を出たりはいったりしているらしいとか
昔、風邪薬を飲みすぎて切れちゃったらしいとか
いろいろな噂話でいつも盛り上がっていて
みんな亀ちゃんが好きだった
誰かがコーラをおごり
誰かが亀ちゃんのことをかまってた
少し、羨ましいなと思ってた
私はいつも独りぼっちで
だから、私は亀ちゃんが嫌いだった
哀れんでもらってるように感じて

いつものように地下道を抜けて
砂浜に出るところの石段で
夜空を見上げる
夕方、ひどい通り雨だったから
星さえ見えないほど
月が輝いていて
そこには亀ちゃんが座ってた
私は隣に腰掛けて
きれいだねって
うん、きれいだねって
亀ちゃんが答えると
私の心は勝手に緩んで
馬鹿みたいに泣けてきて
亀ちゃんは、相変らず月を見上げてて
なぐさめるわけでもなく

亀ちゃんがマリリンに言った
リカチャンモウミガメナンダネ

月ではなくマリリンでもなく
私を見てもらいたくなって
キスした
それしか方法がないような気がして
亀ちゃんはびっくりして
身体を強張らせたけど
すぐ、柔らかくなって
私はしがみついたまま
泣き続けた
リカチャンハウミガメダカラ
そう言って、頭を撫でてくれるのに
亀ちゃんは勃起していった
私は気がついたけど
気がつかない振りして
そっと身体を離した
亀ちゃんはキチガイで
違う世界に住んでるけど
身体は男なんだ
そして、私は女で
ウミガメダ

それから、毎晩、亀ちゃんは
コカコーラのベンチではなく
石段に座ってた
私を待っててくれた
私も毎晩
亀ちゃんのとなりに座って
夜空を見あげる
時には図体のでかい亀ちゃんに寄りかかりながら
色んなことを話す
一日にあったこと
東京でのこと
彼のこと
亀ちゃんが聞いているのかはわからないけど
私は泣いたり笑ったりしながら
そして、ひとしきり話し終えると
キスをする
唇が離れると
バイバイ、ボクノウミガメチャン
と亀ちゃんは言う

お店でいやな思いしたり
彼から電話があったりして
気分がいらいらしてたりすると
石段で待ってる亀ちゃんを無視して
砂浜へ下りていった
亀ちゃんは
そんな意地悪な私の後を
やっぱり無言で歩く
波打ち際に残る
私の足跡の上きっちりと
二人の足跡は
いつも一人の足跡で
そのうち亀ちゃんと
私の波長がいっしょになってくると
自然に涙が出てくる
だから亀ちゃんに走りよって
キスをして
そして、唇が離れると
バイバイ、ボクノウミガメチャン
と亀ちゃんは
いつものように言う

海にカツオノエボシが
うようよし始めるころ
お店に集まる人たちは
亀ちゃんの病気のことではなく
私と亀ちゃんのことを詮索しだして
面白おかしく話している
時には、私も"キチガイ"扱いされ
下世話にも忠告されたりもする
亀ちゃんは"キチガイ”かもしれないけど
他の人よりもやさしくて
決して危害を与えることはない
私は知っているから
悲しくて
私の耳には
あんまり聞こえない
毎日、ただキスをする
抱きしめたりすると
亀ちゃんは勃起したりするけど
キチガイであることは
なんの問題も無かった
少なくとも
その夏は
ボクノウミガメチャンでいたかった

その夜は
夏の最期の夜みたいに
お店は人でいっぱいだった
誰もが明日から
秋がくることを知っているみたいに
騒いで飲んで
別れを惜しんでいるように見えた
お店が終わると
いつものように
砂浜に抜ける地下道
いやな予感がした
不穏な空気
悲鳴にならないうめき声
醜い罵声が
思わず走り出した
亀ちゃんは数人に囲まれて
ボロ切れみたいに
やられてる
地下道に私の声が響く
叫び声が
共鳴し増幅されて繰り返し
地下道も叫ぶ
気がついたら
二人きりで
亀ちゃんは血だらけで
でも、笑ってて
アイガトウといった
緑亀のマリリンは死んでいた
私は、悔しくって
無性に腹がたって
亀ちゃんを抱きしめて
泣いた

その夜から
亀ちゃんは石段にいない
病院に戻ったからだ
怪我の治療だけではなく
多分、当分出られなそうだ
と、亀ちゃんのお母さんが
彼女はやつれていて
小さな老女だった
亀ちゃんがいつか私に言ってたっけ
カアサンハウミガメジャナイ
だから
ご迷惑をおかけしました
なんて、私に言うんだろう
迷惑をかけたのは多分
私のほうだと思うのに
亀ちゃんは石段ではなく
ベンチに座っていれば
よかったんだ

私は砂浜を歩くのをやめて
自転車を買った
やがて海の家が撤去されて
お店にもお客さんが少なくなった頃
彼が迎えにきた

あれから何年経ったんだろう
お店はもうなくなっていて
砂浜に抜ける地下道だけが
あの夏の抜け殻のようにそこにあって
石段には
亀ちゃんがいなかった
今の私には
夫がいて
恋人がいて
子供がいて
そして私は
欲望する女であって
ボクノウミガメチャンには
もう、戻れない







2001/8


自由詩 ウミガメ Copyright 芳賀梨花子 2005-08-24 00:14:56
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